唐の長安を上都と称したわけ

     唐の長安を上都と称したわけ        


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   唐の長安   平凡社「アジア歴史地図」より


 
平凡社東洋文庫『唐両京城坊攷』長安と洛陽(徐 松撰 愛宕元 訳注)より、引用抜粋

【以下引用】
唐の西京は初めは京城と称した。隋代に新たに築かれた都城であり、開皇二年(五八二)に造営に着手された。唐の天宝元年(七四二)に西京、至徳二載(七五七)に中京と改称され、上元二年(七六一)に西京の呼称にもどされ、翌年には上都と改称された。
 以上引用終わり
 

以下より注(二)の抜粋
長安が西京と呼ばれるのは東都洛陽との両京制のためである。実質的な政治中枢としての都城武則天期を除いて常に西京長安だった。……天宝元年の西京への改称は

州名を郡名に改称した制度改正の一環である。唐代の地方行政区分は、隋文帝によって州郡県の三級行政区分を州と郡とを統廃合して州県二級区分とされた行政改革を承け、約三〇〇州、一五〇〇県の州県体制であった(この数は中国内地の直轄統治下の州県数である。広域な周辺部に置かれた羈縻州は最盛期には八〇〇州を越える)。州のなかでも、首都圏や行在の所在州、また重要州は府として一ランク上級に位置づけられた。西京長安の地方行政上の正式名称は雍州京兆府であり、東都洛陽は洛州河南府である。その他、并州太原府、益州成都府などがある。至徳二載の中京への改称は、安史の乱で西京長安が反乱軍に占領され、玄宗が蒙塵を余儀なくされて益州成都府や岐州鳳翔府(ともに行在となったがために府に昇格)に臨時的に滞在せねばならなかったことに関連する。七五六年六月以来、占領されていた都城長安が一年数ヵ月ぶりに奪回されたことを記念して、なお反乱は鎮圧されてはいないものの、官軍士気を鼓舞するために中京と改称されたのである。東の洛陽、北の北京太原府(并州は唐朝創業の地であることから、府への昇格だけでなく、北京として両京に準ずる格付けがされた)、西の鳳翔府、南西の成都府との位置関係からして、長安がほぼ中央にあること、そしてそして本来の都城の回復ということからの改称である。その後の上元二年と翌宝応元年の改称も、ともに乱の鎮圧過程での官軍側の戦意高揚を図るための政治的意図に基づくものである。 
 

インターネットで「上都」を検索しても、それが長安だとはわかりません。それで特に引用抜粋をアップすることにしました。