妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十八
妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十八
中国歴史地図集 後漢の冀州 オレンジ色の四角で囲った所を注目してください。 香港 三聯書店より
麴義(きくぎ)はこの好機を見逃さない。
殺せ。殺せ。息の根を止めろ。大戟は敵の馬の足をなぎ払い、矢の雨が降った。
界橋亭城の東方には公孫瓚が先頃から根城にしていた広宗県城がある。そこに逃げ込む前につぶさねばならない。
私は奔る幽州兵を空から追う。
界橋は戦場だった。唸る矢、金属が触れ合う音。怒号。大戟に足を払われた馬が堤から河原に転がり落ちるのが見えた。
勝った、わしらの大勝利だ、冀州の後続部隊の進軍は物見遊山に赴くような気楽さである。最後に笑う者が勝者ではないか、なんという不心得者だ、そのなかに偉丈夫がいた。
「あの男、袁本初(紹)に似ている。いや本物の本初だ」
鼠の白頭王が叫んだ。
「あらあら、本初はなにをしているのかしら?」
袁紹は馬から降りて鞍を外している。馬を休ませる気らしい。
「へん、いい気なものだ。本初め、尻の皮が剥けたらしいぞ」
好学が笑った。
「なるほど。宴席で議論にあけくれる毎日だ、尻の皮も薄くなろう」
白頭王が手を叩いて笑った。
「不用心なこと。本初の警護は百人余りしかいない。それに弩(いしゆみ)は一、二、三……ざっと見たところ数十張だわ。不意に敵に囲まれたらどうする」
「ややっ。死神女が黄色の髪をなびかせて追って来よる」
螻蛄の好学は死の乙女が嫌いらしい。
「おお、空が陰ったと思えばなんじゃ。ありゃ烏に鳶(とび)の群れだ。いかがわしい輩が押し寄せてくる」
白頭王は空を見上げて顔をしかめた。
「どれもこれも死者を目当てに群れ集う」
「天の掟ですわい」
好学はしんみりとした顔で白頭王に囁いた。
「先生はやさしいのう……気があいますな。これからもずっと同行してくだされ」
「白頭王どのこそやさしい。いつも奥ゆかしいお心に接して胸が熱くなる。漢(おとこ)は……情が厚くなければならぬ。義に生きねばならぬ」
「真にそうだ。われらは義に生きるものだ」
「あ、本初めが油断しおって」
白頭王が舌打ちした。
私は楡の梢で耳をすます。袁紹の肩をもつ気はないが、胸がどきどきした。
「閣下」
「なんだ」
「ここは我らで防ぎますゆえに、あの垣の間にお隠れなさいますよう」
「麴将軍に伝令を走らせました。応援がくるまでの間、垣のなかでご辛抱を……」
「隠れろと申すのか! 敵に囲まれて垣のあいだで生き延びるよりも、潔く戦って死んでやろうではないか」
袁紹は甲(かぶと)をつけ配下をきっとにらんだ。
公孫瓚の騎兵は幾重にも袁紹を囲んで矢を放つ。だが、楯で囲んだ偃月(えんげつ。三日月のこと)の陣はなかなか崩せない。これには焦れた。近寄れば陣から騎馬兵が飛び出してきて、大戟で馬を斬る。陣の中から矢が飛ぶ。さっさと引き上げる兵士も出だした。そのうちに鉦(かね)や軍鼓を鳴り響かせながら麴義率いる応援部隊がやってきた。瓚の兵士たちは袁紹の顔を知らなかった、ここに袁紹がいるとは思いもよらなかったのである。瓚の騎兵はあっさりと兵を引き、冬枯れの盤河(ばんが)渡って広宗に逃げてしまった。麴義はなおも追った。そして瓚の本陣に建てた牙旗をぬいてしまった。牙旗は旗竿の頂を象牙で飾った旗で、天子や大将軍の旗である。この旗が抜かれたり旗竿が折れたりすると主に不幸があると恐れられた。瓚の兵士は意気阻喪して広宗から引き揚げてしまった。
野晒しの髑髏(しゃれこうべ)を夏草が包むころ、董卓が殺されたという知らせが山東にとどいた。董卓を殺したのは呂布という曰く付き男だ。ふと私は、雒陽でわかれた玉璽の精のことを思い出していた。あの精は雒陽とともに死んだのかしら? それとも深い眠りをむさぼっているのかしら?
今、袁紹のもとに幼児の体に大人の顔をもつ玉座の精が棲み着いている。なるほど袁紹は山東の無冠の皇帝にも等しい。それにあの袁術、袁術のもとでみた玉座の精。どれもこれもまだ生まれたばかりですでに卑しい大人の顔を備えている。権力欲あるところ玉座の精は生まれるのだ。
「 蓚」とあるところが広川郡です。時代により行政区分が変わるからややこしいです。
続く。
注*注*後漢の広川郡は現、河北省衡水市景県南西部。
袁紹みずから指揮する兵を広川郡にだし、公孫瓚と戦うと、三国袁 紹伝にあるが、これは広宗へ出兵したのあやまりではないか?広川郡は、公孫瓚と盧植の門下でまなび、当時、公孫瓚に身を寄せていた劉備が相をしていた青州平原郡に非常に近いが、界橋亭城からは何日も費やす行程である。(一日15キロが軍の行程)。袁紹に比べるとほぼ無名に近い劉備と袁紹が対峙するはずがない。史料に誤りがあるのではなかろうか?