妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十九

    妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語二十九

 

東方にも西方にも北方にも南方にも王者の気が立ちのぼっていた。

「ああ、これは一体どういうことだろう」

鼠の白頭王はため息をつき、はらはら涙をこぼした。

「貴殿はこれがどういうことなのか知っていなさる。だから涙を流されるのだ」

 螻蛄(けら)の好学の声はしめっていてぶっきらぼうだった。

 

騒乱は底なし沼の様相を呈し、やみそうにもない。日頃、人間どもは「鼠輩(そはい)」だの「虫けら」だのと、つまらぬものの例えに鼠や虫を引き合いにだすが、それでも人間の落ちぶれた姿をみるのは辛い、辛すぎた。生きのびるために人は人肉まで食らっていた。
「しっかりと掴まってくださいな。目立ちますから草むらに隠れますよ」

 私は草むらをめがけて降下する。

 燃えるような緑の季節にあっても、男たちは田畑を耕すのをやめ、女たちは蚕を飼うのをやめてさすらったから、これから先も飢えと寒さから逃れられない。街道は盗賊で塞がっていたので、昼間は隠れて夜になると間道をたどった。

 「悟っておいでだな、白頭王。天下統一まで遠い道のりだ。野山に髑髏がうずたかく積まれ、それが朽ちて土にかえる日に、はじめて天下は一つになるのだ」

 泣くような声を好学がはっした。

「私は鄴(ぎょう)城が輝いた時代を生きました。鄴城が陥落した日をこの目で見ました……」

 白頭王の声が震える。

彼の魂は風に吹かれる木の葉のように揺れている。

私は目を閉じて心を遊ばせると、彼の魂に寄り添った。

 

 賑やかな市。日は高く昇っていたから市の引け時かもしれない。行き交う人は古風な衣をまとっていた。そうだ、胡服の騎馬隊をみかけたから、これはずっと昔の鄴らしい。豚の燻製をつるした出店の隅で小さな鼠がきらきらと目を輝かせている。鼠は店の親父が連れていた小さな女の子をじっと見つめていた。

「さあ、お食べ」

 女の子はしゃがむと炒り豆を鼠の前に置いた。鼠はお辞儀をして豆を食べた。

「もう、あっちへお行き。犬に捕まるといけないわ」

 鼠はお辞儀をして走り去った。

次にみた光景、深い悲しみが私の心を揺さぶった。彼の心の目は火を見ていた。不吉な星のように無数の火矢が城に流れこみ、城は燃えている。突き崩された城壁から敵兵がなだれ込む。土煙の中を、小さな鼠は怖い顔をして走っていた。京観(けいかん)が至る所に築かれていた。

「あれは京観だわ、またの名は髑髏台……」

人はなぜかくも残虐に行いを……。屠った敵の屍を山のように積み上げて京観と称したが、これは戦勝を鼓舞し、さらなる戦闘意欲をかきたてるためにそうしたのだと聞く。

白頭王は、戦国趙の都が秦に抜かれた時のことを思い出していたのだ。無数の死者の山のなかに、ついに鼠は小さな女の子の屍を見つけた。

「なぜだ。なぜだ」

 鼠は身を震わせて泣いた。蹄の音がとどろいた。鼠は逃げようともしないで泣いた。騎馬軍団は鼠を蹴散らして走り去った。おや、白頭王はあのとき死んだのか。あのとき、非業の死に倒れた魂が凝り固まって白頭王を妖(もののけ)として蘇らせたらしい。

 

 「まことに酷い時代です。酷い時代こそ生き方が問われます。泣きなされ、思い切り泣いて疲れたら眠るのです」

 好学が歌うように鳴いた。悲しみを声にだして歌うと心は癒やされる。

 私は黙って天を仰いだ。このような哀しい時を数え切れないほど過ごしたが、天は誰を助けたのだろう。

 

私たちは草むらに潜んでまどろんだ。

風が人間の臭いと話声を運んできた。

「……帝(みかど)の使者が董卓の死を知らせにやってきたが、義旗は呼応しないのう。帝の値打ちも地に堕ちた、帝を山東にお迎えしようとしない」

「うむ。義旗は兵を擁して権力争いに腐心しとる」

董卓は死んだけれど新しい董卓が生まるのみか。わが殿はご立派だ、帝に変わらぬ忠誠を誓っておいでだ」

「うむ。忠誠心は天下第一だ」

「惜しい男を亡くしましたよ。ああ、生きておればねぇ……忠誠天下第一は呉の暴れ者、孫堅だったかもしれぬ」

「うむ。あの男、ちと荒っぽいが豪快な男よ、のう」

 

 男達の声に聞き覚えがあった。

「あの声は俳優(わざおぎ)の夫婦者か」

 螻蛄(けら)の好学が私の耳元で囁いた。

「あの者たちは劉幽州(虞)の密偵だったのですね」

 私はなんとなく安心した。理想ばかり唱えているようでいて劉虞という男、現実をよく見ていて手抜かりがない。

「西の都は安定するどころかまた騒乱だ」
董卓殺しはやつの子飼いの呂布という男ですよ。あの男、恩義ある者を二人も殺して富貴を得た。恩賞で転ぶ男だ」

「うむ。きっと野心が勝っているのだ。そのような男はかえって御しやすい。少し眠れ。今宵は河を徒渡(かちわた)りだ」

 それっきり草むらが静まりかえった。

風はまたもや男達の体臭を乗せてきた。野宿を重ねたと察せられ、さすがに女には化けられない。ひげ面の若い女を想像してみて笑いがこみ上げてきた。夫婦者では通せない、今は兄弟に化けているのだろう。

界橋の戦いで大敗を喫した公孫瓚であるが、敗れたりとはいえ意気盛んである。

 

 続く