妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語三十

   妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語三十


茜色が去ると寝起きのような一番星が姿を現した。
 劉虞の密偵たちは糒(ほしい)で腹ごしらえが終わったらしい。あわただしく身支度をととのえると歩き出した。私はこの密偵の後を追った。追ったというより幽州への道標にしたのである。
董卓の死が伝わったころだったと思う。この密偵の動きが変わった。きままに諸国の事情をさぐっているように見えたが、任務を交代したかのように幽州へと進み始めたのだ。時にはあたりを警戒しながら日中に間道を突き進むことすらあった。
「おかしいぞ。幽州に変事が起きたのか」
螻蛄(けら)の好学が首を傾げた。
「近頃、劉白安(劉虞の字)の使者を見かけないのう」
 鼠の白頭王が頷いた。
「お使者の一行は天子に貢ぐ財物を狙っていつも盗賊に目をつけられる。それゆえに道を変えたのかも知れませぬ。律儀者の劉伯安が貢ぎ物を欠かすとは思えませぬ」
「ふむ。西関を抜けて山沿いに西へと進む道を選んだか。これも難儀な道だ」
好学が頷く。
「西関はどんな関所だ」
「古より天下に聞こえた居庸関のことです」
「おお。居庸関か。あの秦の始皇帝が長城を築くために庸(どれい)を移して住まわせたゆえに居庸という名付けたとか」
「そういう言い伝えを聞いたことがありますな」
 故郷の幽州が恋しいのか好学の声が湿った。
 
関所で歩哨が大声で歌っていた。
 
燕の南のほとり
趙の北のはて
真ん中裂けてつながらない
大きさ礪(といし)のよう
そこじゃ、そこじゃ
そこに世を避けよう 
 
「なんだ、あの歌は」
 美男の俳優(わざおぎ)が連れの男を顧みた。
「仲間からの手紙にあったが、このごろ幽州で流行る童謡だ。わしらは公孫伯珪の息がかかった地に入った、油断するな」
 二人は押し殺した声は続く。
「……あれは農夫や童が作った謡(うた)じゃねぇ」
「兄貴よ、怖い顔して考え込んでなんになる。大層な意味などありゃしないさ」
「意味などない? おおありさ。あれは学があるものが作った謡だ。礪(といし)という譬(たと)えには深い意味がある」
「ふーむ。そういえば土地の大きさを砥石に譬えるとは妙だ。砥石は刃物を研ぐ砥石だ、 砥石のような大きさの土地に世を避ける? まったく避けようがない、片足ほどの広さのが
載る広さでどうやって寝るのだ」
 密偵たちは草むらに消えた。
 
螻蛄の好学が私の肩の上でにっと笑った。
「やっと片足を載せられるくらいの広さか……的を射たわい」
「好学先生。的を射たとおっしゃるがそのわけをお聞かせください」
「ちと難しい話になりますが、白頭王も趙姐さんも利発なお方だ、すぐにお分かりになるる。礪(れい)とはつまり砥石のことですが、深い意味が隠されていてのう、礪は漢の封爵(ほうしゃく)の儀に使われる決まり文句なのだ。学がある者には真意はくみ取れる。農夫や童はどうかな」
 好学が首をひねった。
「おお、さすが好学先生だ。それで」
 鼠の白頭王は目を輝かせて好学に寄りそう。
「諸侯に封(ほう)ぜられたものは『黄河帯のごとく泰山礪(といし)のごとくせしめ、国以て永存し爰(ここ)に苗裔をもってす』という誓いの言葉」
「ねぇ、その意味を聞かせて」
 私は好学の言葉を心の中で追う。好学は学があるので助かる。公孫瓚や瓚に身を寄せている大耳の劉備という者と同じ師のもとで学んだだけのことはある。
「おっほん」
 咳払いをして好学は居住まいをただした。師匠が弟子に対するように顔つきまでしやきっとしている。
「このお決まりの誓約の言葉は、国が無窮に栄える意で、大いなる泰山も砥石のように、大いなる黄河も帯のように小さくなるまで、国が永遠無窮に栄えるという譬えです」
「ふむ、なるほど」
「なんと気が遠くなりそうな時の流れでしょう」
 私はため息をつく。
「だれがこのような謡を作ったのか」
「さあ、それですわい」
 好学は面白そうに私たちを見た。
「先生、じらすでない」
「そうですよ、早く聞かせて」
「あくまでも好学の推察ですぞ……劉伯安は決してこんな歌を作りません。公孫伯珪に取り入って大儲けしている三悪人のなかに占い上手なのがいる。私はそいつが作って流行らせたと思う」
「なにゆえにまた?」
「鉄と燃える石が採れる土地の利をおさえたい、それが本音だろう。三悪人はそれで財を成した」
「おお、なんと……」
白頭王は呻いた。
 
 つづく