狼心の人 司馬懿(しばい)

司馬懿(字は仲達)は狼顧の相(ろうこのそう)の持ち主だと伝えられる。
狼顧の相の持ち主は狼心(ろうしん)を持つ、人相学ではそう言われていた。

ちなみに「漢書」を書いた班固(はんこ)の弟、班超は若いころ、人相見に見てもらった。
人相見は「君は燕の頤(おとがい)をしている。このような相の人は故国を遠く離れた地で成功する」といった。
後年、班超は西域経営で功を立て名をあげた。
燕の頤とは、燕のように丸くて小さな顎(あご)らしい。

司馬懿の言行を追うと、情が強い。人はここまでできるものかと考えさせられてしまう。
曹操は有能な人物をことごとく配下におさめようとした。司馬仲達は優れているという者がいたので、召しだそうとすると、「あいにくと中風を患いまして立てません」と断ってきた。
「やつめ、病を口実にしたな。化けの皮を剥いでやる」
曹操は内心、むっとした。
天下は漢の天下といえども、実質は曹操の天下である。一介の無官の男が天下の曹操を蹴ったのだ。
漢を簒奪する男に、いずれ誰かが義兵をあげる、仲達はそう睨んで天下の成り行きを静観していたのである。

曹操は賊を放ち、仲達を刺すように命じた。
賊が侵入して仲達を刺す。刃をかざせば、普通なら逃げる。
仲達は逃げなかった。刺されてもなお、中風を装って動かなかった。
「中風は本当らしい」
曹操に、賊が報告した。

仲達は世を欺いて暮らしたが、あるとき、書物の虫干しをした。
時ならぬ、にわか雨に見舞われた。
「ああ、わしの書物が」
とっさに庭に駆け下りて書物を取り入れた。
「あっ、うちの旦那様、中風が治った」
仲達の家の下女が、目を丸くして見ていた。
「奥様、旦那様はすっかり回復されましたわ。旦那様、お庭を走っておられましたよ」
下女がうれしそうに仲達の妻、張氏に報告した。
張氏は口封じのために即座に下女を殺してしまった。たった一人の下女だった。その日から、炊事に洗濯は張氏がすることになった。

しかし、曹操の目を逃れることはできない。
「出仕せよ。さもなくば一家皆殺しじゃ」
曹操に迫られて、しぶしぶ出仕することになった。

そのようにして夫、仲達を守った張氏である。その張氏も年をとっていく。仲達は出世街道を進み、美姫を侍らせるようになる。お上から恩賞に美女を賜ったりする。だからだろうか? 男たちは命がけで富貴を目指す。
晩年近く、仲達がもっとも寵愛したは柏夫人(はくふじん)である。
仲達が病んだ。病床には柏夫人がつきそった。
夫の病状が気がかりで、張氏が顔をだす。
「老いぼれは憎々しい。どうして面突き出して、うっとうしがらせるのかっ!」
仲達が声を荒げた。

「糟糠(そうこう)の妻は堂より下ろさず」という。
張氏は恥じ怒り、自殺する気でその日から食を断った。驚いた子供たちも、母にならって食を断っつた。それを聞いた仲達はおどろいて張氏に謝った。
あとで人にこう語ったという。
「老いぼれなんぞ惜しくない。わしの大事な息子たちを困らせないためじゃよ」

史書は当時の世相を反映して男尊女卑がはなはだしいが、それでも、出世した男が古女房を追いだして名門の姫君や美女たちを妻に迎えたことを記しては、「識者はこれを非とした」と付け加えるのを忘れない。

諸葛孔明の花嫁選びは心を和ませるものがあるが、仲達の糟糠の妻への仕打ちは心を寒々とさせる。これも狼心のなせる業だろう。