天の利 地の利  『おお、赤壁よ』

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天の利とは天の時ともいわれる。
地の利とは文字通り、山や谷、川などの地勢の優劣をいう。おもに兵法者が好んで使う。地の利もまた「地の時」と言いかえられたりする。
天の利、地の利をおさえる者は勝利する。

天の利は、天が与え給うた好機をさす。チャンスだ。天が与えようとするものを受けないと咎(とが)を受ける、と信じられていた。

献帝の建安十三(208)年秋七月、曹操劉表を討とうとした。
八月に劉表が病死した。その後継者である劉琮(環境依存文字。王へんに宗)は、ひょっ子と言ってよいほどの若さ。しかも武将の器量を持ち合わせていない。
曹操荊州を攻めると聞いて、降伏してしまった。

荊州曹操の手に墜ちると、豫州刺史だつた劉備は南郡に逃走した。
その地から諸葛亮を使者に立てて、孫将軍(孫権)に援兵を依頼した。

荊州を平定した曹操は、孫権に手紙を送った。
「さきごろ、天子の命を奉じて罪人(つみびと)を伐(う)った。わが旗印が南を目指せば、劉琮(王へんに宗)はなすすべもなく降った。今、わが水軍八十万を率いて、孫将軍と呉の地で狩りをしようと思う」

ついでに足を延ばして呉を平定しようという腹だ。
手紙をみた孫権はうぬ、ぬ、ぬと怒った。
手紙を家臣に見せると、一様におののくばかり。八十万の衆である。こちらの兵力は十分の一以下である。
この際、曹操に降ろうという悲観論が大勢をしめた。
そのとき周瑜はよその地に使いに出ていた。
急いで周瑜を召した。

「八十万の衆といっても、そのなかには戦闘には使えない老兵や少年もおりますよ。それらを除けば兵力になりうるのは十五、六万と言ったところでしようか。しかも、その兵といえば、あらたに降伏した兵士を加えたために、疑り深くなっていたり、戦意を失っている」
周瑜がにっと笑う。
さすがに周瑜だ、と、思わず孫権は身を乗り出す。
「そのうえに」
「そのうえにまだあるのか? はよう、続きを話せ」
曹操の軍はこの土地に不慣れです。きっと、病に苦しみ次々と倒れていきます。大軍の糧食はどうする? 冬だと言うのに軍馬の飼い葉はどうする?」
「うむ。うむ」
ますます孫権は身を乗り出す。
「わたくしに手練れの兵を五万与えてください。曹操をみごと打ち破ってみせますぞ」
なんと頼もしい言葉ではないか。
孫権は思わず、周瑜の背中を撫ぜていた。
「ほかの武将たちはおのれの妻子可愛さに、みな降伏せよといいよった。わしと公瑾(こうきん。周瑜の字)と魯粛の三人だけだ、戦おうと言ったのは」
おそらく降伏していたら、孫権曹操の魔手から逃れられなかったに違いない。後顧の憂いを断つために陰謀をでっちあげて殺しただろう。

周瑜の水軍は江を西へと遡り(さかのぼ)り、赤壁曹操の軍と対峙した。
周瑜たちは長江の南岸に布陣していた。曹操は長江の北岸に布陣していた。
その日は雨だった。東南の風にあおられた雨は横なぐりにふる。
曹操の兵士は病(寄生虫による風土病だと思うのだ)に倒れていった。しかも飢餓に見舞われていた。
しかも、寒風をまともに受けて兵士は凍えていた。
密使がきて、黄蓋という武将が降伏するのでよろしくと知らせてきた。

とこで黄蓋は船団を連ねその最後尾に快速船をつないでいた。船団には枯れた荻や枯れ木をいっぱい積みこませ、まんべんなく魚油を注いでおいた。それを濡れないように布で覆い、そのうえにまん幕をかける。
亡命するからには財産や食料を持ち出すので、これは、曹操の軍に怪しまれない。
長江のなかほどまで来ると船は帆を張った。風を孕んで船は矢のように走る。
「おお、降伏してきたわい」
曹操の軍士たちはみな、江上を見守っていた。
曹操の陣から二里のところまで黄蓋の船が迫った。後漢の二里はおよそ829メートル。太鼓の合図ととともに、いっせいに火矢が曹操の陣に放たれた。積み荷の覆いをとり、火をつけたからたまらない。火矢は風ととともに曹操の船を襲った。つづいて燃える船が、次々と水面を疾走して曹操の船に体当たりする。

溺れ死ぬ者、焼け死ぬ者があとをたたない。雷のように太鼓が響き、赤々と燃え盛る火に周瑜劉備の船団が水面を滑りだす。

この勝負、地の利はどちらも同じだった。どちらも長江という天然の要塞を利用して布陣した。ところが、天の利は周瑜にあった。土地に熟知した者たちのみぞ知る、天の利である。

曹操は残りの船を焼き払い、華容道を歩いて逃げた。
雨でぬかるんだ道に人馬ともに足を取られて動けない。そこで老兵たちに枯れ草を敷きつめさせて、やっとのことで華容道を抜けたのである。

華容国は華容侯に封ぜられたものの国である。華容道が洛陽に通ずる道か、江の北岸から華容国に通ずる道かは、詳らかではない。が、前後のいきさつからみて、華容国に入る道かと思われる。

華容道が通行できるようになると、人馬が殺到して多くの老兵が下敷きになって死んだ。
華容道を抜け出ると、曹操が声高に笑ったのである。大負けしたのに愉快そうに笑ったのだ。
八十万の衆が呉の小童の数万の兵に敗れた。うちの御大もついに頭にきたか。いぶかしんだ武将たちが曹操にそのわけを尋ねた。
劉備の才気とわしの才気は五分五分じゃよ。ただ、劉備は閃くのがわしより遅い」
そういってまた、笑った。
劉備たちは曹操を追って華容道まできたが、曹操たちはすでに遠くに去っていた。

長江を船で下って武漢までいく途中、赤壁を通った。岩壁に「赤壁」と赤色で大書してある。
岩壁はごく平凡な焦げ茶色だ。
後漢書』に、このとき、あたりは昼のように明るく、火は赤く岸壁を染めたとある。
赤壁の名は、このときの戦に由来するのではないだろうかと推測するのだが、『水経注』を調べていないので、あくまでも推測の域をでない。