気を飲みて死す

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侯景という男がいた。
この男は北魏の懐朔鎮(かいさくちん。治所は内モンゴル包頭西北)の住人で、無名の高歓(こうかん。北魏末の権臣で、考武帝を追い詰め、北魏を東西に分裂させた張本人)と無二の親友である。

侯景は若いころに落馬したせいで、片足が少し短く、歩くときは足を引きずった。
弓術も剣術も並みの腕前だったが、智略に優れていた。
六鎮(りくちん)の乱という大乱を平定するなかで侯景は、高歓と手を組み、押しも押されぬ勢力を築いていった。わかりやすく言えば、景は軍閥の首領だ。
西魏から刺史(州の長官)に任命され、軍隊を擁して西南を守っていた。
高歓が死ぬと、侯景は江南の梁王朝に亡命した。
侯景は、自分の才気に匹敵するのは高歓であるという自負があった。自分が高歓の後継者にとって危険な男であることも知っていた。江南への亡命には、はじめから野心があった。
侯景はやがて反旗を翻し、梁の都である建康(江蘇省南京)を攻め、武帝、簡文帝をはじめ、諸王などを殺して梁王朝を奪ってしまった。
ときに、百済の使者が都に着いた。焼け落ちて廃墟になった宮城をみた使者たちは大声で泣き続けた。

簡文帝の訃報が江陵に届くと、武帝の第七子である蕭繹(しょうえき)を擁立する機運が高まった。
承聖元年(552)三月、王僧弁らが侯景を平定し、その首を江陵に送ってきた。
資治通鑑では侯景が殺されたのは四月である)

その年の十一月、湘東王の蕭繹が江陵で即位した。元帝である。
承聖三年十一月、西魏が攻めてきた。元帝は囚われの身となり、十二月十九日に殺されてしまう。


元帝の孫に永嘉王の蕭荘という者がいた。荘の父は蕭方等といい、元帝と徐妃の間に生まれた長子である。
徐妃は猛々しい気性で、とても嫉妬深かった。元帝は徐妃をきらい、王美人を寵愛していた。
方等は才能豊かな男であるが、それゆえに自身の立場の危うさを知っていた。父はきっと王美人の産んだ子を後継者にたてるだろう。そのとき自分は……。
彼は父に認められたいという思いと、一日も早く死にたいという思いに絶えず身を引きさかれていた。王美人が急死した。元帝は徐妃の仕業だと思いこんだ。
いよいよ方等の立場は危うくなった。
父に命令に忠実に従った。死ぬには絶好の機会だと思ったのだろう、戦場では自ら先頭に立ち、矢や石の雨をもものともしなかった。そのために数々の手柄をたてた。望み通りに戦死したが、父である元帝は泣かなかった。口元に笑みを浮かべたという。


永嘉王蕭荘は、西魏が江陵を攻め落としたときに逃げて、人家にかくまわれた。そのとき、荘はわずか七歳だった。七歳でも、若くして死んだ父の無念さは骨身にしみていただろう。
のちに、王美人の弟である王琳という武将に守られて東へ降った。王琳は荘を即位させるつもりだった。
王琳はもともと兵家の人であった。兵家とは兵士の戸籍に配されたいた下級の職業軍人と推察するのだが、推察の域をでない。軽蔑の意味合いをこめて記されるので、卑しいと思われていたらしい。
王琳の姉が元帝の寵愛をうけたので、彼も異例の抜擢をうけた。武将としての素質に恵まれていて、常に手柄をたてる。しかも、恩賞は一人占めしないで、大勢の部下に等しく分け与えた。部下を慈しんだ。
部下は王琳を慕い、「おいらの大将のためなら命をすててもよい」とほれ込んだ。

ところが西魏が江陵を制圧した年の十一月に、太尉の王僧弁と司空の陳霸先が相談して、元帝の第九子である方智を梁王にたて、政を行うことにした。
政局はめまぐるしく動いた。僧弁はのちに陳王朝を興した陳霸先に殺される。形勢は梁にとって不利を極めた。
東魏は滅び、高歓の第二子である高洋が斉(ほくせい)を興していた。
王琳は蕭荘を斉国に人質にだした。
そのとき「荘を貴国の力で梁主に立ててください」と依頼した。
陳霸先が梁から禅譲を受け、陳王朝を立てた。
斉では天保(斉の年号)九年(558)二月、兵をだした。斉の軍隊に護られて荘は、湓城(ほんじょう)から郢州に入り、三月に即位した。このとき荘は数え年十三才である。大任を背負うには痛々しすぎる。
その翌年(559)の六月に、仇である陳霸先が病死した。喜びもつかの間、陳王朝は彼らを討つ手を緩めない。
陳の文帝の天嘉元年(560)二月、陳に討たれて敗北し、王琳らとともに斉に亡命した。
斉では侯爵に封ぜられた。そしていつか亡国を再興するための兵力を貸すことまで約束された。
再興を果たせぬまま、歳月が流れ、五百七十七年に斉は北周に滅ぼされてしまう。
再興を誓って斉に亡命して十七年、蕭荘は三十二歳になっていた。
王琳は死んでもう、いない。斉が滅んだからには再興の夢も消えた。
荘は気を飲んで死んだ、と記される。

気を飲んで死ぬとは一体どういうことだろうか。意味が不明だ。辞書にも出てこない。
気を閉じて死ぬは、窒息死の遠回しな表現である。
ずっと考えに考えて、これは餓死をさす遠回しな表現ではなかろうか、と、推察する次第である。
それにしても哀れな人生である。
哀れゆえに、「気を飲んで死す」と史書の著者はわざとそう記したのだろう。


注 江陵
注 湓城
注 郢州
以上は地図を参照のこと。

参考史料 南史
     資治通鑑
     中国歴史地図(三聯書店有限公司)