さらば 麗しき故郷よ

張彪(ちょうひょう)という男がいた。
襄陽の出身だと自称していたが、真偽のほどはわからない。
「おふくろは蘭氏で、刺史(州の長官)になった蘭欣(らんきん)の従兄弟だ」と自慢していたが、これもほら話かもしれない。
侯景が梁の都、建康を乗っ取った頃から、この群盗の首領は歴史のひのき舞台に躍り出る。

彪は泣く子も黙る若邪山の群盗で、大勢の手下がかかえていた。
太清元年(547)、梁の簡文帝の第五子である蕭大連が東揚州刺史になって赴任してきた。
ある日、柄にもなく彪は考え込んでしまったのである。
「こいつら、好き好んで盗賊になったわけじゃない。食えなくてしかたなく悪事に手を染めたまでのことよ。みな、お天道様をまっとうに仰げる身になりたかろうよ」
と、ため息をついた。
「今度の刺史は皇帝陛下の数ある孫のなかでも一、二を争うすぐれ者らしい」
と、思案のあげくに、彪は手下を引き連れて山をおり、客分として厚遇され、ついに大連に仕えて将軍にまでとりたてられた。
「やはり、わしが睨んだように、殿様は太っ腹じゃわい」
彪は、堂々と白日のもとを闊歩できる部下たちを見ては満足そうに目を細めた。

注 東揚州の治所は会稽郡で今の江省紹興市東

太清二年の秋に侯景が叛いた。その年の終わりに都は攻められていた。太清三年春三月、宮城は陥落した。
大連は衆四万を率いて都に向かった。
すでに都は侯景に制圧されたあとだった。このとき救援の兵は三十万に達したが、みな、怖気づいて闘志をなくしてしまった。
武帝は仏教に心酔し、仏の奴隷になることばかり願っていたし、貴族たちは平和に慣れてしまい、男も化粧して耽美的な詩を作ることに腐心していた。この頃の梁の美術品の優美なこと……。
詩文の才や学識をひけらかし、国防など念頭になかった。
大連もそうである。戦いもしないで東揚州にもどってしまった。

会稽は豊かな土地である。食料は豊富であった。侯景の残忍さに懲りた避難民たちはみな、戦いを望んだ。現実から逃れるように大連は酒をあおった。酒浸りの毎日である。
学があり文才があっても、いざのときに腰ぬけではどうにもならない。
「男ってものはいざのときに、愛しいものを守るものだ。山賊のわしだってそれぐらいわかる」
彪はぺっと、唾をはいてやりたくなった。

太清三年(549)十二月、侯景の武将、宋子仙が東揚州を攻めた。東揚州城は陥落した。南郡王に封じられた蕭大連は逃走した。
張彪は子仙に仕えた。
群盗あがりでも、やはり、侯景の残虐さにはついていけない。
彪は子仙のもとを去って若邪山に帰り、やがて侯景討伐の兵をあげた。

戦にあけくれるうちに王僧弁に従い、僧弁の爪牙とまで言われるようになった。
僧弁が侯景の乱を平定すると、張彪は建康(江蘇省南京)に豪邸をかまえ、山海の珍味に美女の舞、歌姫たちの唱歌に楽の音、王公にも匹敵する羽振りの良さだった。

どこでかっさらってきたのか、妻の楊氏名門の美女である。楊氏は初婚ではない。もっとも侯景の乱で多大の死者がでたので、若くして夫に死別した女は珍しくない。
彪は楊氏に惚れた。
「おまえは綺麗なだけの女じゃない。若邪山の春みたいな女じゃ」
「……」
朱唇に酒杯を重ね、楊氏が彪の言葉をまつ。
「心が安らぐのじゃ。春になると桃の花がさく。こんなつまらぬ男でも、しみじみと生きていてよかったと思えてきて、踊りだしたくなる」
「まあ、うれしい。どの殿方もわたしの器量を愛でてくださっても、心までは愛でようとはしなかった」
「のう」
「はい」
「わしはおまえを故郷と呼ぶぞ」
「まあ、うれしい」
傍目には山賊上がりの成り上がりと名門の姫君である。しかし、楊氏もまた彪という男を愛しいと思っていた。

王僧弁が陳霸先に殺された。
張彪の運命は急変する。
陳霸先の勢力に追われ、部下には裏切られ、誰も信じられなくなる。ついてくる部下がいても追手と思えた。妻の楊氏と愛犬の「黄蒼(こうそう)」を連れて若邪山に戻った。
彪が眠っているうちに追手が忍び込んできた。黄蒼が賊の喉元にかみつき、食い殺した。はっとして飛び起きた彪は、逃れられぬ運命を知る。追手は山を降りろと命じた。
「故郷よ」
「はい」
「わしは故郷がよその男に抱かれるのかと思うと我慢できない。許せ」
彪が刀を抜く。楊氏は両手を合わせ、目をつぶるとすっと白い首を差し伸べた。
えいっと刀を振り上げ、振り下ろす。振り下ろしたはずで、か細い首がごろりと床に転がったはずだった。
転がったのは彪の大ぶりの太刀。夜の室内を震わせたのは彪のうめき声。
「故郷よ、わしはおまえを斬ることができぬ」
腹の底から絞り出すようなうめき声をだした。
項羽は虞美人(ぐびじん)を斬った。
虞や、虞、汝をいかんせん
項羽の心は血を流していたに違いない。

山を降りた。
彪は妻に別れの言葉をのべて首を切り落とされた。
黄蒼は主の体のまわりを転げまわって鳴いた。血まみれなり、まるで親孝行な息子が泣いているように思えたという。
故郷と呼ばれた女、楊氏は隙を見て刀で自慢の黒髪を切り、美しい顔を傷つけて男の要求をきっぱりと退けた。そして尼になった。それでもまだまだ彼女の美貌は際立っていた。
のちに陳の武帝の軍人が彼女を探し出し、連れて行こうとした。楊氏は井戸に身を投げてしまった。
寒の盛りである。井戸から引き上げると息絶えているように思えたが、たき火で温めると息を吹き返した。するとこんどは火に身を投じようとしたという。

楊氏がその後、どのように暮らしたか詳らかでない。
しかし私はあの犬とつつましく尼としての生涯を終えたと、思い込むことにしている。