きみは五丈原に逝けり  死せる孔明、生ける仲達を走らせる 前篇

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三国分立の形勢は崩れそうになかった。

蜀では昭烈帝劉備が章武三年(223)四月に六十三歳で亡くなり、後主劉禅の治世である。
禅はよい子だが、坊ちゃん以外の何者でもない。重荷を背負うにはあまりにも頼りない。
諸葛孔明が蜀を支えていた。孔明の孤独は底知れない。

呉の黄龍元年(229)、呉の群臣たちは孫権に即位することを請うた。その年の夏四月に夏口や武昌の地に黄龍鳳凰があらわれたので、天が下した瑞徴だとして、孫権は皇帝の位についた。孫権、ときに四十八歳、呉の大帝である。
帝位についた孫権は焦燥感にかられていた。赤壁の戦いの勝利は遠く、劉備を西陵で大敗させた日も遠い昔になった。
曹操は死んだが、その子の曹丕(魏の文帝)が漢王朝を奪い、魏王朝を建てた。丕は黄初七年(226)五月に死に、その息子である曹叡の治世が続いていた。
すぐにも中原の地を掌中にいれるはずが、すべてうまくいかない。
こんなはずではなかった。
会稽の東冶(とうや)から、秦の始皇帝の命を受けた徐福という方術師が、童男童女数千人を連れて、蓬莱山に不老不死の仙薬を求めて船出したが、その地に住み着いて戻ってこなかったという。土地の古老は四百年数十年前のことを昨日のことのように語る。
即位の翌年、孫権は神仙の住む島をさがしに船団をだした。
生き残った英雄の孤独とあせりがにじむ。

孫権は、毎年のように長江をさかのぼって湖北省の魏の前線基地を攻めた。しかし、二度とふたたび烏林(うりん。赤壁の戦いの地)の奇跡は起こらない。

諸葛亮には大望があった。
蜀の領土は地図でみればよくわかるように魏と接していた。蜀に入る主な道は剣閣をとおる、険しさで有名な蜀の桟道(さんどう)である。
もうひとつは長江をさかのぼり、適当な地点で上陸して蜀に入る方法である。水行の方が楽そうだが、そうでもない。水先案内人がなければ難所で立ち往生したり、水に鉄の鎖を沈めておき、船が通過するとき鎖を引き上げて転覆させてしまう。
とにかく蜀は天然の要塞に守られた地の利をもつ。

[魏を呑んでやろう」
 亮はそう、もくろんだ。
長い長い年月をかけて練った策である。
兵糧がいる。いつも兵糧不足に悩んだ。
民に農業をすすめ、農閑期には兵を鍛錬した。
木牛や流馬を作り、これを使って穀物を運び、斜谷口に集めておいた。
念の入ったことに、斜谷に屋敷や高殿まで築かせ、民には十分に休養をとらせておいたのだ。
そして、呉の孫権に使者を立てて、期日がきたら大挙して大軍を動かすことを約束させた。
密使をだし、魏の領土に入らせ山西省にいた鮮卑族に反乱をおこすように誘っておいた。
魏は三方から攻撃を受けるのだ。
「是が非でも呑んでやろう」
決意が堅ければ堅いほど孔明には苛立ちがあった。


長くなりますので、この続きは明日か、明後日に更新いたします。