続 きみは五丈原に逝けり 死せる孔明、生ける仲達を走らせる 中篇

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蜀の前主(昭烈帝劉備)が死んでから、
諸葛亮は心に穴があいたように虚しくてたまらない。
「禅が不肖の子なら、そちがこの国をとれ」
劉備の言葉が耳を離れない。
「あの方とわしは年こそ違え、主従を超えた交わりで結ばれていた」
涙とともに、思い出が蘇る。思い出のなかで亮は微笑する。
「肝胆相照らすとは、あの方とわたしのことだ。そちがこの国をとれなど、とんでもない。あの方は、この国を作った最大の功労者はわしだと宣言してくださったまでのこと。かたじけないお言葉ではないか」
亮の目が潤む。

わしは楽毅よ。管仲じゃわい。
不運な英雄をみた。志半ばにして非業の死に倒れた男たちをみた。一攫千金を夢見て、野に骨をさらす兵卒のついえた夢のあとを、わしは馬上に慟哭の思いで眺めてきた。
わしらの時代は一体なんだ?
なんだ?
なんだ?
わしらは、悪い男が世を乱し、民が塗炭の苦しみに嘆き死んでいくのをみた。よい政が行われる世の中を目指して、英雄たちは義兵を挙げたはず。それが、見ろ。戦、戦、戦じゃ。
だれもが英雄になりたがる。そして、無様に骨をさらす。
わしらの時代は妖魔の時代だ。妖魔は人食いが好き、戦艦のような顎(あぎと)をあけて、人食いを止めぬ。
わしらは伝説の美女「夏姫(かき)」のような時代を生きている。「このうえもなく美しいものは、心がこのうえもなく邪悪で不吉だ」と古人はいう。そうかもしれぬ、このうえもなく美しい時代だ……。
人として男として、わしはわしの生きざまを見せてやろう。人は滅ぶが名は滅びはせぬ……。

劉備が亡くなったとき、まだ四十代の初めだった亮も五十代、老いを自覚していたに違いない。はやく、事を成し遂げねばならない。

蜀は幾度となく外寇の危機にさらされた。
魏の明帝の太和四年(230)には魏の大将軍である司馬懿と曹真が蜀を討った。
西城(せいじょう。陝西省)から山を切り開いて道をつくり、水陸ともに進んで沔水(べんすい。べんは環境依存文字。眄の目をサンズイに置き換えた字)を遡って朐ニン(ニンは肉月に忍耐の忍。四川省)まで入り、新豊県を抜いた。陸からは丹口(地名不詳。丹水の川下らしい)まで進んだが、雨に会い、魏軍は引き返していった。

蜀にとっては脅威である。
「わしの目が黒いうちに蜀が滅ぶようなことがあってはならない。黄泉であの方に申し訳がたたぬわ」
翌年、諸葛亮は天水を攻め、魏の武将を祁山(きざん。陝西省岐山)に囲んだが、結局は司馬懿のために退却を余儀なくされた。

司馬懿には郭淮(かくわい)という知将がいた。
このころ、魏は土地の制度改革や開拓をおこなっていて、国は富んでいた。したがって、兵糧は豊かだったのである。

蜀もまた、魏との前線に屯田兵をおき、兵糧の確保につとめた。

魏の青龍二年(234)春二月、諸葛亮は十万の大軍を率いて斜谷から魏の領土に入った。
「これは天下分け目の決戦でございます」
亮は心のなかで劉備に語りかける。
「地の利は臣が分野、天の利はあなたさまの掌中にございますぞ」
できることなら、劉備の存命中に仕掛けたかった戦だ。
魏では西の守りに据えておいたのは司馬懿である。あらかじめ、呉と同時に大軍を出すことを約束してあったから魏は東からも、同時に攻撃をうけることになる。
司馬懿が西を守れば、明帝が東を守る。司馬懿が東を守れば明帝が西を守ると、明帝は公言していた。

司馬懿め。やつが出しゃばるとどうもうまくいかぬ。あ奴を誘い出して討つ。あ奴の首を討ちとれば、魏軍は瓦解する」
しかし……のう、と亮は天を仰ぐ。
「あ奴、この戦に本気で臨むだろうか?」
亮の胸中に疑念がかすめる。奴は冷静で智略にたけている。
しかも、若くない。青臭くもない。ちょうど人として知恵も世間智にも通暁してする年頃である。司馬懿はこのとき五十六歳である。騙しは利くまい。
この戦で華々しい功を建てたら、奴の立場は危うくなる。
「いやいや、曹叡はまだ三十歳にもならない。臣下の讒言に惑うとしごろじゃ。奴はどこまで本気をだすか……」

その年の三月に後漢最後の皇帝、献帝(譲位後は山陽公に封ぜられた)がなくなった。譲位して十四年、よくぞ生き抜いたものである。
黄泉の国ではじめて真の安らぎを得ただろう。わずか九歳で即位した劉協は五十四歳で逝く。諸葛亮と同年輩である。ちなみに孫権はこのとき、五十三歳である。

亮は斜谷を出て郿(び。環境依存文字。眉におおざとへんがついた字)から渭水の南原に砦を築いた。
これが五丈原である。
五丈原渭水をさかいにして北と南にわかれる。渭水の北がわが五丈北原、南がわが五丈南原である。東西は山地にかこまれている。

郿を蜀書は武功の五丈原とする。
どちらも同じである。
五丈原は武功城の西十里(今の四キロ強か)にあった。
なぜ武功なのか?
武功はまた、斜谷道をぬけて関中へでる道が武功の近くにあったと、史記の褚先生(イノシシ獣偏を衣へんに変えた字。ちと、自信ない。史記の注釈をいれた先生の名前、あやふや。興味のある方、史記を調べること)記されている。納得。


司馬懿渭水の南原に駐屯しようとした。南の方が民の穀物の集積があったからだ。
ところが当時の雍州刺史である郭淮が反対した。


図書返却のため図書館にいきますので、この続きは明日、更新いたします。
切れ切れでごめんなさい。自分でも、不人気ブログになぜ、精力を注ぐのかわかりません。