続々 きみは五丈原に逝けり 死せる孔明、生ける仲達を走らせる 後篇

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諸葛亮渭水をわたり、是が非でも五丈原の北原に布陣しなければならなかった。

鮮卑族が、并州(山西省)の鮮卑族が反乱をおこして并州を南下してくるはずだった。
うまくいけば、鮮卑の騎馬軍団は七日、いや、遅くとも十日前後で黄河のほとりまでやってくる。
漢代の軍制では軍の一日行程は二十里、今の九キロ足らずである。なんだと思われるかもしれない。
これは歩兵や輜重部隊を配慮しての行程で、倍道(ばいどう)といって昼夜兼行の行軍もある。これは兵を疲れさせるので、兵法ではタブーとなっている。逃走する場合はこの限りではないが。
しかし、騎馬民族は違った。長時間、馬に揺られても尻の皮ひとつ破れない。


余談であるが、侯景の乱で建康が囲まれた時、まだ逃げる余裕はあった。
「さあ、お逃げなさい」
馬を用意された貴族は、尻の皮が剥けるのを案じて都に居残り、賊徒に殺されてしまった。

また、東晋のある貴族は政争に敗れ、馬で都を脱出したが、一時間も走ると尻や太ももの皮がむけ辛抱できずにうろうろしているうちに捕まってしまったなどの逸話がのこる。


呉が魏の荊州(湖北省)に攻め入る手はずである。
南からは呉軍が魏の領土を北上して、魏の都、洛陽(河南省)をめざす。

亮は五丈原の北原から、渭水ぞいに東進して長安を制圧する。関中は山に囲まれ、東方は黄河と潼関(とうかん)に守られた天然の要塞の地である。
その五丈の北原に、救援にかけつけた司馬懿が布陣してしまったのだ。
司馬懿は宣言した。
諸葛亮がもしも武功を出て山沿いに東に向かったら、まことに勇者である。けれどももし、西に向かって五丈原に上ればわが術中に墜ちたも同然だ」
諸葛亮五丈原の南原に陣取った。先を越されたのだ。

諸葛亮の存在は魏にとって恐怖であった。
亮の出兵をきくと、魏の明帝は征蜀護軍の秦朗に歩兵、騎兵あわせて二万を率いて司馬懿の救援に向かわせ、司馬懿の指揮を仰ぐように命じた。
司馬懿には
「動くな。砦をかためて相手の鋭鋒をさけ、彼の戦意をくじけ。進軍しても戦にならず、退いても戦にならない。とどまること久しければ兵糧がつきる。そこで畑を荒らそうとするが、奪うものがなければ兵を引き上げるだろう。引き上げはじめたら、そこを追撃せよ。これが勝利を全うする方法だ」
そう、命じた。

戦にならなかった。といって、何もしないわけではなかった。なんとか北に渡らねばならない。
武功水という川がある。斜水ともいわれる。
西南の山から流れてきて武功県城のあたりで渭水に流れ込む。
三国時代の武功県は五丈原の南原の東十里(いまの4キロと少し)におかれていた。

その武功水の東側に武将を派遣して、陣地を築かせた。武功水の水かさが増すと、これに乗じて司馬懿がその陣地を攻める。亮が竹で橋を築くと魏軍が攻めてくる。橋が完成すると魏軍は引き上げる。
渭水にそって東にいくと馬冢にでる。武功から東十里にあるのだが、馬冢に登ろうとしても地勢が険しくて無理である。だから南原にとどまらざるをえなかった。

しかも、戦をしかけても司馬懿は挑発に乗ってこない。
五月に呉の孫権が十万の兵を率いて安徽省の巣湖付近に駐留し、合肥の新城に進む構えをみせた。
陸遜諸葛瑾に万余人統率させて長江ぞいの江夏、沔口(べんは眄の目をサンズイに変えた文字)に進ませ、魏の襄陽に攻め入るように命じた。
秋七月、明帝みずから呉の孫権を討つために進軍した。
水、船戦にかけては呉は手練れである。魏は孫権を上陸させ水から遠ざけて地上戦に持ち込む作戦に出た。
孫権もまた智者である。地上戦の不利を熟知していた。船を降りようとしない。
そのうち明帝みずから大軍を率いて進軍してくると聞き、あわてて兵を引き上げてしまった。兵十万を自称していたが、実数はもっと少なかった。そのうえに陸邨諸葛瑾らに兵員を分け与えた。明帝の精鋭軍団に太刀打ちできない、はじめから明帝は長安にいくとふんだらしい。

鮮卑はまったくあてにならなかった。前年に山西省で反乱をおこしたが、これも魏に討たれて塞外に遁走してしまった。

司馬懿と対峙すること百余日にも及ぶが、出撃の気配がない。
「わしを制圧するために遠路はるばるここに来たのだ。戦うはずが戦わぬとはなぜだ。臆病なだけさ」
亮は使者を司馬懿のもとに派遣して婦人物の衣服を贈った。
「わしが臆病風に吹かれたというのか」
司馬懿はひげを震わせて怒る。
「そうか、怒ったか」
それを聞いた亮は愉快そうに笑う。
だが、撃って出ない。
「わしらの御大将は諸葛をこわがっていなさる」
そんな噂に、司馬懿が腹を立てて
「出陣だ、太鼓を打ていっ」
すると、明帝がさし向けた辛毗(しんぴ)が節を杖ついてあらわれ、
「上意をお忘れか」と睨む。
あるとき、亮の使者に懿が問う。
「ところで諸葛公はどのように過ごされておるのかのう。一日どれくらい食されるのか?」
「三、四升でござる」
「ほう。政はだれが担当しておる」
「棒叩き二十以上の罰はみなご自分で取り調べをおこないます」
使者は胸を張って答えた。
司馬懿はほくそ笑む。
あんなに小食で、瑣末な仕事を抱え込んでいたら眠る暇もない。諸葛亮は先がながくない。
このとき使者は呉の撤退の知らせを懿から聞いたに違いない。気安くぺらぺらしゃべりすぎてしまつた。
四升で0.7924リットル(後漢の尺貫法による)、今の四合と少し。
亮は長身である、もっと食べねばならなかったらしい。

明帝は呉の東征から戻ると許昌にいき、それから山陽公の葬儀に参列すると長安に向かった。
「亮は呉が撤退したことを知ると諸葛も肝をつぶすぞ」と司馬懿に告げた。
司馬懿は効果的に亮の使者を揺さぶったのである。

天の時は去った。
地の時を失った。
地の利を失った五丈の南原は、まるで柵のなかに囲い込まれたように出口がない。

胃がきりきり痛んだ。隠せないほど、衰弱が激しくなった。後主の使者が見舞いに来た。使者は国事を相談して去って行ったが、数日後に戻ってきた。亮ははっと悟る。ああ、長くはないのだな。

使者に後任の人事を手配し、亮の田畑や桑畑を国家に返上するように遺言する。
おりしも、流星が亮の陣地につぎつぎと墜ちた。
「ああ、あれはわしのことだ。死ぬ時がきたか」
その年の秋八月、諸葛亮五丈原の陣屋に逝く。

喪は伏せられた。
亮の長史、楊儀は軍を整えて陣屋を出た。
「引き上げていきまぜ」
土地の者が、司馬懿の陣屋に走ってきて告げた。
「なに、引き上げて行ったか」
すぐさまに陣太鼓を打ちならし、司馬懿は蜀軍を追う。
すると姜維(きょうい)という武将が楊儀に、旗を翻して突撃の太鼓を打てと命じた。そのさまは、いままさに司馬懿を攻撃する態勢だ。
「あっ、引き上げではない! 罠だ。わしをおびき出す罠だ、亮の罠にかかるところだった」
司馬懿はあわてて撤退の鼓を打たせ、軍を退かせた。次にどのような罠が仕掛けられているかわかったものでない。懿は蜀軍の成り行きをじっと見守る。
楊儀は陣を結びながら粛々と遠ざかる。斜谷道に入ってから兵士に諸葛亮の訃報を伝え、哭声をあげた。
「死せる諸葛、生ける司馬を走らせる」と土地の者たちがはやすと、
「わしは生きている人間のことは推しはかれても、死んだ人間のことはさっぱりわからぬ」
司馬懿はすっとぼけてみせた。