美しい高句麗の娘

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寫眞は北魏文昭皇后の陵(洛陽 グーグルより)

北魏、献文帝の治世の頃である。
柳城鎮(遼寧省朝陽市)の近くに、とてつもない美少女があらわれた。
高句麗からの亡命者、高颺(こうよう。ヨウは環境依存文字。風の右に易をつけた字)の娘である。

身分あるものではなかった。
どのようないきさつで亡命してきたのか不明だ。
当時の高句麗には中国のような姓氏や名前などない。
高句麗王とその一族が高姓を名乗ったのは、中国との外交上での便宜からで、高句麗の一字をとって高氏と名乗ったらしい。


献文帝の皇興五年(471)、高麗の民、奴久が仲間と一緒に逃げてきたので各々に田宅を与えたと記される。
高句麗の平民が数十人規模で投降してきたことが、わざわざ帝紀に記録されていることに疑問を覚える。この後に続く記録が失われたように思える。
この奴久こそ高颺(ヨウは風に易)ではなかったのかと、わたしは推察する。

高颺(ヨウは風に易)の娘の美貌は評判になった。
鎮の長官は「美しさは婉豔(えんえん。エンは環境依存文字で、豊の右に盍をつけた字)、後宮の務めを果たせると存じます」という文書をつけて、その少女を当時の魏の都、平城(山西省大同)に送った。

婉豔(えんえん)とは、あでやかで豊かにうつくしいという意味で、潤いがある美しさをさす。決して痩せてはいない、豊満な美貌をも意味した。
きっと端正で華やかな目鼻立ち。内から光がにじむような美少女だっただろう。もちろん、長い黒髪は光をはじいて輝いていたはずだ。

その年の八月、年若い献文帝は義母である馮太后(ふうたいこう)との軋轢に敗れ、わずか六歳の息子に位を譲って、内政は馮太后にまかせた。
譲位した献文帝は皇居を出て、平城内の北にある崇光宮に住んだ。上皇として軍事だけを執り行うことになった。

たぶん、鎮の長官は、そんな上皇の無聊をかこつ日々の慰めになればと、少女高氏を都に送ったはずだ。

少女と対面した馮太后
「ほう、これは美しい」
その美貌に驚いた。

少女は上皇後宮にふさわしかったが、わずか六歳の孝文帝の後宮に入った。そのとき、高氏は十三歳。

のちに高氏は宣武帝元恪(げんかく)と広平王の元懐(げんかい)、長楽公主を生んだ。
北魏はのちに洛陽に遷都する。
洛陽宮が完成すると勅命がでて、後宮たちも洛陽にむかった。高氏はその道中、賊徒に襲われて落命する。

高氏が死んだとき、孝文帝に臣下は昭儀という位を贈るように請うたが、帝は首をたてにふらない。
臣下が文昭貴人という諡(おくりな)を示すと、「よかろう」と答えた。
昭儀は皇后に次ぐ位で、三公に相当する。

孝文帝の寵姫は、馮太后の兄、馮熙(ふうき)の娘である馮昭儀である。
馮昭儀は元恪(宣武帝)に目をつけていた。元恪の母になって恪を太子に立てるつもりだったので、その生母である高氏を殺したのだという噂が流れた。
高氏は孝文帝陵の東南の塚に葬られた。やがて高氏のために広大な陵墓が築かれる。

「そこに神が降臨されたように美しい」といわれた宣武帝が即位すると、卑しいとして孝文帝の治世には顧みられなかった高氏一族は一夜にして貴族になり、栄耀栄華を極めた。それがやがて北魏の滅亡の遠因になるのである。
高氏は息子により、文昭皇后と諡され、

武帝は父母の供養のために伊闕(いけつ。河南省洛陽)に龍門石窟寺を開削させ、母、高氏の面影を石仏に刻んでいる。これもまた、北魏滅亡の遠因となるのである。

龍門石窟寺の賓陽洞だったか……高氏の面影を刻んだ供養仏があると聞いた。高氏の面影をもとめて龍門を尋ねたが、わからなかった。
山西省大同の西の雲崗(うんこう)石窟の端正な石仏の面影に、高氏の面影を求めた方がいいのかと思ったりするのだ。


中国三大石窟寺は敦煌石窟、雲崗石窟龍門石窟。これらは見ました。
五大石窟は上記にキジル石窟寺院、麦石山が加わったと思います。麦石山はまだ行ったことがありません。
哀しい話が伝わる石窟ですが。