悲恋のDNA  麦積山石窟   前篇

人はさまざまな形で両親の遺伝子を受け継ぐ。
姿形はもちろん、物の考え方、好みまで似る。思考回路や好みは「家という一種の運命共同体」によって獲得された、後天的なものとも考えられる。
しかし、古人の生涯を追っていると、『悲運や悲恋の遺伝子が存在するのではなかろうかと愕然とする』ことがある。

悲恋のDNA。いやいやそんなものは存在しない。存在したら困る。
ただ、「家という運命共同体」によって作られた「自我」と思考回路が、そのような結果へと物事をみちびくのだろう。

『美しい高句麗の娘』という題のわたしのブログをお読みの方には、高句麗からの亡命者が北魏・孝文帝の後宮に入り、宣武帝元恪(げんかく)を生んだことはご存じだと思います。


北魏の宣武帝には京兆王・元愉(字は宣徳。生母は袁貴人)という異母弟がいた。

愉は孝文帝の太和二十一年(497)九月、十歳で京兆王に封(ほう)ぜられ、都督、徐州刺史を拝命して徐州に赴任する。

ある夜、徐州の官舎で愉は美しい歌声に魂を奪われた。
「ああ、なんと素晴らしい。天女がここに舞い降りてきたような気がする」
「あの声は……楊という兵士の妹でしよう」
「ここへ呼んで参れ」

愉は文学の素養があり、詩を作ることが好きだったとある。感受性が人一倍強かったのだろう。
一目見るなり娘の美しさに惹かれ、その娘を側に置いた。
愉が十三歳のときに孝文帝が崩御する。
孝文帝は「諸王は漢人の名門から妻を迎えねばならない」と命じ、すでに妻がいる王まで漢人貴族の娘と結婚させている。
父である孝文帝が崩御すると、愉は刺史の任期半ばで洛陽に呼びもどされ、護軍将軍を拝命した。
見染めた娘を妻にするには、あまりにも身分が違いすぎる。
そこで娘を名門李氏の養女にし、李氏の家から娘を迎えて世間体を整えた。

武帝はそんな小細工を認めなかった。
皇后である于氏(うし)の妹と愉を結婚させてしまう。
愉の心はいつも李氏にあった。李氏は愉との間に寶月(ほうげつ)をもうけた。二人の仲ははためもうらやむほど睦まじい。一方、王妃于氏は冷淡にあしらわれた。
王妃于氏は、皇后に訴えた。
皇后于氏は李氏を宮中に召しだした。
李氏は宮中で嫌というほど杖でぶたれ、髪をそり落とされて尼僧にさせられてしまう。そのまま、宮中に閉じ込められ、王邸に戻れなかった。
皇后は、王妃于氏の子として寶月を養うように王妃に命じた。

ところで皇后には懐妊の兆しがなかった。
皇后の父はそれを恥じて、ひろく後宮をおくようにと皇帝に上奏した。そこで李氏はようやく王邸にもどることなったが、軟禁から一年以上経っていた。

愉は常に恨みを抱いていたという。
愛する李氏がいつも辱められることと、二人の弟に比べて官職が低いことに腹を立てていた。

時代の空気は重苦しい。
武帝は兄弟を愛していつも身近に置いておきたがったと史書は記すが、実際は兄弟たちを軟禁していたともいわれる。たえず、監視していたというのだ。
即位すると、宣武帝は、生母高氏の一族を大抜擢する。それが諸王の反感を買うが、高氏一門とともに有力な諸王を殺していく。
不気味な死の足音を愉は敏感にかぎ取っていたのかもしれない。
過度の奢侈をとがめられ、体よく都を追放されて冀州刺史になると反旗を翻した。
冀州の治所である信都で即位し、李氏を皇后に立てた。
いきあたりばったりのこの乱はあっけなく平定された。
李氏と四人の子は檻車で都に護送された。駅舎につくと車から降りて李氏と会える。いつみても必ず李氏と手をつなぎ、かいがいしくいたわりの言葉をかけていたという。

愉は道中で自殺した。時に二十一歳。
愉の謀反事件には高氏一門が陰謀がからんでいるように感じられる。
愉は気を絶って死んだ、つまり縊死である。世間では高氏一門の首領である高肇(こうちょう)が人を使って殺したと噂した。


この続きは明日です。