続 悲恋のDNA 麦積山石窟  後篇

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京兆王元愉は死に、愛妾李氏(元の姓は楊氏)は刑死した。
その四人の遺児は、罪は免れたものの宗正寺(帝室の取り締まりや戸籍をつかさどる役所)に幽閉された。

幽閉六年あまりで宣武帝崩御し、後ろ盾を失った高肇が殺された。高肇が殺されてはじめて両親の無実があきらかになり、自由になった。


愉と楊氏(李氏のこと)の第二子に寶炬(ほうきょ)という者がいた。
寶炬は血気盛んなところといい、いささか思慮にかけるところと言い、父親そっくりだった。

武帝の後継者である孝明帝は霊太后胡氏の不品行に腹をたてていた。
孝明帝と寶炬は霊太后の愛人を殺そうと計画するが、その謀がもれて寶炬は免官される。
さまざまな要因が重なって、豊かで国力が充実していた北魏は財政がひっ迫し、滅亡の坂を転がりおちていく。
寶炬は南陽王に封ぜられた。


北魏の力はますます衰え、皇帝の首のすげ替えは権臣の意のままとなり、一年の間に三人の皇帝が立つという混乱ぶりを呈した。
やがて、尓朱一門を倒した高歓が孝武帝・元脩(げんしゅう)を立てた。
高歓と孝武帝はまもなく対立し、若い孝武帝は老獪な高歓に真っ向から立ち向かうが、太刀打ちできず、関西に拠っていた宇文泰(うぶんたい)を頼って長安に逃れる。
この事件により北魏は西と東に分裂するのである。
西魏の都は長安
東魏は従来の都、洛陽が西魏との国境から近すぎるので鄴(ぎょう。環境依存文字。業の右におおざと。河北省磁県)に都をうつした。

武帝がまだ洛陽にいたころ、寶炬は太尉という高官を拝命した。
ときに高歓の腹心たちは無礼だった。朝廷で催された宴会で寶炬が酒をすすめても飲まない。
寶炬は怒って「この鎮の兵士上がりが、どうして私が勧めた酒を飲まないのだ」
ぽかりと殴ってしまった。
一昔まえなら、鎮の兵士など卑しい身分とされ、昇殿は許されない。それがのさばっているのだ。
武帝には痛快な事件だが、高歓の手前、またもや太尉の官を辞めさせられた。
血気盛んな気質は「あれは壮士よ、のう」と人に好かれるのだろうか、人望があった。
高歓に逆らった寶炬は、孝武帝長安行きに同行した。
まもなく孝武帝と宇文泰との間に亀裂が入り、亀裂は修復しがたいものになる。
長安に入っておよそ五ヶ月後、宇文泰は孝武帝を毒殺した。時に孝武帝は二十五歳だった。


宇文泰は元寶炬を即位させる。西魏の文帝(在位535~551)である。
文帝は王妃だった乙弗氏を皇后にたてた。
乙弗氏の先祖は、青海地方を支配した吐谷渾(とよっこん)と呼ばれた部族の王だった。
吐谷渾は支配者階級は鮮卑族で、その民はチベット系の民族だといわれる。

乙弗氏と寶炬との仲は睦まじく十二人の子をもうけたが、育ったのは太子と武都王の戊(ぼ)だけである。
皇后は美貌で闊達な人だった。皇后の顔を見れば宇文泰の重圧にも耐えられた。
二人の愛は永遠に続くかと思われた。
文帝が即位した頃、異民族である柔然がしきりに西魏を侵攻した。
そこで柔然と結婚して和親しようとした。
それが実り大統四(538)年、柔然可汗・阿那瓌(あなかい)の娘が嫁いで来ることになった。
その年の正月、阿那瓌の娘が柔然の王庭をでる。
二月に皇后乙弗氏は廃位させられた。
十六歳で寶炬のもとに嫁いできて二十九歳で家を出されたのである。
「わたしになんの罪があろうか?」
乙弗氏は悔しさに唇をかんだ。
「わたしの家は柔然より家格が上ですわ。母は孝文帝の第四皇女、淮陽長公主。人面獣心の信義をわきまえぬ蠕蠕(ぜんぜん。柔然のことを魏ではこうよんだ)の田舎娘のために、わたしは辱められた……」
乙弗氏は泣いた。
青海王として君臨した血筋の末裔である。
三代にわたって北魏の公主を降嫁された家の子である。娘たちの多くが王家に嫁いでいる。
廃后乙弗氏は、皇居を出て別宮で暮らすことになり、その見事な黒髪を切り、出家の身となった。

三月、柔然可汗の娘、郁久閭(いくきゅうろ)氏が皇后に立てられた。時に十四歳である。負けまいとしてか、それとも生来の気質なのか、雄飛する柔然国の矜持がそうさせるのか、気性が激しい。傲然とした少女である。

「陛下は心にあの人を住まわせていらっしゃる。いえ、狩りにかこつけて外出なさるのはあの人と会うためでしょう」
郁久閭氏は乙弗氏と文帝の仲を疑った。
「なぜ?」
「女の直感でございますわ」
「そのような事はない。だれがそちにそのような事を吹き込んだのか」
「本当になにもございませんの?」
「くどい。何もないのに無理になにかあるようにねつ造する気か」
「じゃあ、あの人を殺してくださいませ」
郁久閭氏の言葉に文帝は顔色を変える。
すると皇后は甲高い笑い声をたてた。

しかたなく文帝は、乙弗氏を秦州刺史として任地に赴いていた武都王の戊のもとに移した。
しかし乙弗氏への慕情は止みがたい。
「髪を伸ばせ。そのうちに呼び戻すつもりだ」
乙弗氏に、ひそかに文帝の伝言が届く。

大統六(540)年春、柔然が大挙して黄河をわたり南下してきた。
春とは春季ではない。正月から三月までを春という。黄河が結氷していたのであろう。
その前駆はすでに夏州に入った。
柔然の使者はしきりに「この挙兵は皇后郁久閭氏のためだ」と訴えた。
「皇后は皇帝から冷たくあしらわれて泣いている。聞けば、まえの妻の髪を伸ばして呼び戻すつもりらしいな」
「どうして、一人の女のために百万の衆を動かすような愚行ができようか? といっても、そのように固執するのなら仕方がない」
文帝は胸の痛みをこらえ、決意した。
文帝の使者が秦州の治所に急ぐ。

使者が早馬でやってきた。
都にもどる日がきたに違いない。
乙弗氏はぱっと顔を輝かせる。

使者が告げたのは凶報。
柔然が大挙して攻めてきたので乙弗氏に自殺してくれという。
「嘘……」
輝いた顔から光が消えた。
敕書を奪い、なんどもなんども目を通す。
涙がとめどもなく流れる。ようやく涙をふるい
「願わくは至尊よ、千万歳の寿命を享けてくださいませ。天下が安らかであるならば、わたくし、死んでも恨みはいたしません」
気丈にも使者に告げる。

わが子、武都王戊に別れをつげ、皇太子に遺言を残したあと、なぜだかわからないが大声で泣いてしまう。
乙弗氏は自殺した。ときに三十一歳。
麦積崖に龕(がん。厨子のこと。合という字の下に龍をつけた字)をうがち、棺を納めた。棺を納めようとした時、二つの叢雲(むらくも)が龕(がん)の中にすべりこみ、しばらくすると一つは消え、一つは龕(がん)から出て行ったという。

郁久閭氏は大統六(540)年、出産のために瑶華殿でふせっていた。屋根の上で犬が吠えているのを聞いて不吉だと気に病んだ。
見知らぬ婦人が盛装してすっと部屋に入ってきた。
「だれです」
郁久閭氏が問う。
まわりの者が怪訝(けげん)な顔をした。
「見なかったのか? そこに飾り立てた女がいたが」
まわりの者がかぶりをふる。
容貌や身に着けていた衣、装飾品を述べると、おつきの者は顔色を変えたという。
それは生前の乙弗氏が身に着けていたもので、容貌はまさしく乙弗氏そのものだったという。
郁久閭氏は子を産み落とすと亡くなってしまった。享年、十六歳。

中国美術は仏教が入ってくるとびっくりするほど美しくなる。
美学および美術史の恩師の言葉です。
当時の仏教が、現生の福徳ばかりを追求したような感じも否めませんが、人はやはり、来世を考えるとき思索に思索を重ね、哲学的になるのでしょうか。そしてこの世ならぬ浄土の美しさ、仏の美を写そうと躍起になったのでしようか。