名月をきみの懐に入れん

北魏最後の皇帝になった孝武帝(元脩。げんしゅう)は、魏書では「出帝」と不名誉な呼ばれ方をしている。国を捨てて出ていったからである。
『魏書』は三国魏の「魏書」と区別するために「北魏書」とも呼ばれるが、この書が編纂されたのは東魏から譲りを受けた北斉の文宣帝の時である。
当然のことながら北斉を正当化するために、前代の王朝を悪しざまに書く。しかも、『魏書』編纂の責任者である魏収は、
「わが手にかかれば人は天にも昇るし、地にも墜ちる」
と、豪語していた。
彼の筆加減一つで悪人が聖人に、人格者が悪人になるわけだから恐ろしい。
よい「列伝」を書いてもらうために、魏収に賄賂を贈るものもいた。
当代第一といわれた文筆の才も、心卑しい男に宿ってはどうしようもない。魏収の『魏書』は穢史(えし)と呼ばれ、物議をかもした。嘘を書かれて抗議したために獄死するものまで出た。
歴史を記録するという立場からみれば、『史記』を書いた司馬遷とは雲泥の差がある。


魏収は、『魏書』を編纂する前から文才を買わ、ずっと史官だった。
魏収たち史官をみると、高歓は腹心に
「気をつけろよ。こ奴ら史官はわしらの悪行を書き残すぞ」
と、声高に笑った。
さすがに魏収は、高歓やその腹心の悪行は書かなかった。
高歓は、漢の高祖・劉邦のように口が悪かったらしいが、そんなことはこれっぽちも書いていない。
魏収は素行は悪いが、人に取り入るのがうまいらしい。傍には居て欲しくない男だ。


武帝は高歓によって擁立された。
そのころ高歓は自分の意のままになる皇帝が必要だった。皇帝という権威のもとに天下を動かす必要があったからだ。
皇帝をおのれの掌中に納めておかないと、詔(みことのり)一つで賊臣となり、討伐の対象となるからだ。
だれを皇帝に立てようかと迷っていたとき、
「御しやすいのは幼い者ですぞ。幼い者を立てなさい」
と、臣下が勧めた。
幼帝を立てて操ればよいというのだ。
いくらなんでも露骨すぎまいか。
やはり、賢くて人望がある者をたてよう。
高歓にも面子(めんつ)がある。世間体を重んじたのだ。

そこで高歓は、廣平武穆王(元懐)の第三子である平陽王元脩を即位させた。生母は李氏。

廣平武穆王は、宣武帝の同母弟である。生母は、わたしのブログ「美しい高句麗の娘」に出てきた高氏である。
この高氏はいつも、
「彼女が部屋の中にいると、日光が滑り込んできて照らし、逃げても逃げても日光が追いかけてくる」
という夢を見つづけた。
遼東の有名な占い師に夢を解いてもらった。占い師は興奮して言った。
「逃げても逃げても日光が追いかけてきたのじゃな。めでたい夢だ! 娘さんは天子のお目にとまり、天子を産みますぞ」

天子を産むといわれた高氏は天子(宣武帝)を産んだ。
武帝は即位するとこの同母弟(廣平王)を軟禁した。
天子を産む母から生まれた弟だから、と思われる。
武帝崩御すると、その棺を安置した宮殿にまっさきに廣平武穆王(元懐)が哭礼をするためにやってきた。
哭礼を第一番にするのは太子である。太子を差し置いて哭礼をおこなうことは、廣平武穆王が後継者であると宣告するようなものだ。
廣平武穆王は目を怒らせた太子の守役に諭され、引き下がる。

時の権力者によつて次々に皇帝が立てられ、廃位させられていくのを見て、北魏の諸王たちは身をかくした。廃位という屈辱に耐えられなかったのだ。
平陽王元脩も身をかくしていたが、高歓の意を受けた友人に説得された。
「君はわたしを売ったな」
怒ってみたものの、心のどこかに父、廣平武穆王の哭礼のことがあったに違いない。
そして、自分は天子となるべき宿命を背負っていると思い込んだとしてもしかたない。
夢に人が現れ、
「脩よ、おまえはとてつもなく尊い身分になり、二十五年にしておわる」
と、告げたという。

廣平武穆王・元懐は、息子の即位によってはじめて皇帝として祀られることになった。
武帝が高歓の長女を皇后に迎えたのはいつだろう。即位してまもなくとあるが、帝紀には出てこない。
武帝の在位は五三二年四月からはじまり、五三四年秋七月には長安へ逃れ、その年の閏十二月、わずか二十五歳、宇文泰に殺されてしまう。二十五年は在位の年数ではなく、彼の享年であった。

長安に逃れるとき孝武帝は、皇后高氏(高歓の長女)を捨てた。高歓への反発が高まるとともに、皇后は
冷遇されたようだ。
長安に奔った時、孝武帝は未婚の従妹(いとこ)が三人を洛陽に残してきた。
ひとりは平原公主明月。
名月は、後の文帝・元寶炬の同母妹である。
もうひとりは安徳公主といい、清河王元懌(げんえき)の娘である。
もうひとりは蒺り(しつり。りの漢字が無い)といい、この人も公主に封ぜられた。
廣平武穆王
長安での後宮での宴で、ある婦人が
「朱門、九重の門、九つの閨(ねや)、
願わくば名月を逐(お)いて
君の懐に入れん」
と鮑照の楽府(がふ)を歌った。

空の月にことよせて、孝武帝の意中を言い当てたのだ。
武帝は人をやって平原公主名月を長安に呼び寄せた。
哀れなことに、呼ばれなかった蒺りはくびれて死んだ。

長安に行くときは、「黄河は東へと流れるのに、わたしは流れに逆らって西へと行くのか」
と、洛陽をとりもどす霸気に充ちていた孝武帝は、名月に溺れた。
長安の卑小な官舎と壮麗な洛陽宮とでは、あまりにも落差がありすぎた。
しきりに美しい華林園での宴を懐かしがるのだ。

「なんと軟弱な。狗ころ(高歓の字、賀六渾。がりくこん)が、手を焼いたのも無理はない。まるで頑是ない子供だ」
宇文泰は眉をしかめた。

宇文泰は騒乱のなかを生き抜いてきた。
野に宿り、矢石の雨をかいくぐり、死体に身をひそめて生き抜いた。
武ばったことが好きな天子で頼もしいと思ったのに、子供の兵隊ごっこだったとは情けない。
そこで元氏の諸王に平原公主を殺させた。
それを知った孝武帝は怒る。
ときには宇文泰を狙って弓を引きぼってみたり、時には、ぱっと机を押しのけてみたりする。
宇文泰の面目まるつぶれである.
まわりの者たちははらはらしながら見守っていた。
これがもとで、孝武帝は宇文泰に毒を盛られて崩御した。
洛陽を出て半年あまりのことである。
在位三年足らずである。