猫鬼(びょうき)

イメージ 1

猫鬼は呪術の一種である。けっして陽の目を浴びてはならない密やかな呪術。
猫鬼が人を殺すと殺された者の財産が、猫鬼を養っている家に移るそうである。
隋(581~618)王朝のときに、獨孤黎那(どっこれいな)という貴族がいた。
黎那は字で、名は陁(た)、阪の左と施の右のつくりを合わせた文字である。

黎那は隋を興した文帝の皇后の異母弟である。当然のことながら帝の覚えもめでたく、出世街道をまっしぐらに進んだ。そのままおとなしくしていればよかったのである。
日ごろから黎那は左道を好んだ。隋書によると、黎那の妻の母は猫鬼につかえていたという。北史によれば黎那の母方の祖母が猫鬼を祀っていたとある。北史が矛盾なく思えるので、北史に従う。
猫鬼は黎那の母方の祖母の家から彼の家に入り込んだ。
文帝に「黎那が猫鬼を養っている」と告げる者がいたが、信じなかった。
また、母親が猫鬼に殺されたと訴えでた者がいたが、文帝は妖妄だと怒って、その男を役所から追い返すように命じたものである。
ところが、皇后が病気になり、続いて文帝の腹心である楊素の妻までが病に倒れた。黎那の妻は楊素の異母妹である。そのとき文帝は、「ははあ、黎那が猫鬼を使ったな」と悟ったのである。外聞をはばかり、文帝はひそかに黎那の兄の穆(ぼく)を呼んで、情愛に訴えて呪いを説くように諭させた。黎那みずからの謝罪を期待していたのだが、黎那は謝罪も弁解もしなかった。
文帝は快く思わなかった。そこで黎那を遷州刺史に左遷した。すると恨みごと発したのである。皇帝を恨むと死罪を覚悟しなければならない。
文帝は名だたる高官を派遣して黎那を取り調べた。
黎那の家に徐阿尼(じょあに)という下女がいた。
阿尼が語った
もとは黎那の母の実家である郭(かく)家に仕えていて、いつも猫鬼に仕えていた。
いつも子(ね)の日の夜に祀る。なぜ子の日かというと、ネズミのことだからである。猫鬼が人を殺すたびに、殺された家の財物が猫鬼を養っている家にひそかに移ってくる。
あるとき、黎那は酒が飲みたくなり家じゅう捜したが、酒がない。妻は「お酒を買うお金がない」という。黎那は阿尼に「猫鬼を越公の家にやって、銭を持ってこさせるんだ」といった。越公とは楊素のことである。
阿尼に呪いをさせた。数日後、猫鬼は越公の家に行った。
開皇十年(590)夏、文帝は并州(山西省)から長安にもどってきた。このとき祝宴が皇居の庭園で催された。黎那は園中で、阿尼に言いつけた。「猫鬼を皇后のところに行かせ、わしにたんさんの贈り物を持ってこさせなさい」
阿尼は呪いをした。猫鬼は宮中にはいりこんでしまった。
吟味を楊遠という者が、門下の外省で猫鬼を呼ばせた。
ると阿尼は夜中に香粥(こうしゅく。かゆ一種か)を器に入れ、匙(さじ)で器のふちをたたきながら
「猫女よ、出て来なさい。宮中に住んではいけないよ」と呼びかけた。しばらくすると阿尼は真っ青になり、まるで何者かに引きずりまわされているかのような動きをした。猫鬼が来たからだという。
文帝はここにいたって以前に役所に訴え出た男のことを思い出し、母親を殺した猫鬼の家を死罪にした。
獨孤黎那は死罪は免れたが、貴族の籍をはく奪されて平民におとされ、まもなく死んでしまった。その妻楊氏は出家させられた。

猫守は想像をたくましくして、一種の魔女狩りではないかと思うのだ。黎那は人に恨まれていたのではなかろうか……なんて思いながら、諭吉の肖像いりお札で、ニヤンタのおでこをピシパシはたき、人間はこういうのが好きなんだ、たーんと欲しいなぁとつぶやく。ニヤンタの奴、目をまるくするだけで、ご利益ないなぁ。
シルクロードをたどった時、ウイグル族の店先に金魚と猫のポスターが貼ってあった。聞いてみると、金持ちになるという縁起物だという。猫鬼の痕跡でしょうか。写真とっておかなかったのが残念。