劉備狂乱  かくも深き劉備の嘆き

劉備狂乱
ちと、刺激的かつ扇情的な題名になってしまった。

が、しかし、髀肉がついた太ももをみて嘆いた、あの劉備髀肉の嘆(ひにくのたん)を深読みするかぎり、決して大袈裟でも羊頭狗肉じみた題名でもない。

髀肉の嘆という熟語に出合ったのは中学三年生だったか、高校の二年生くらいの古典の時間だったように思う。
青臭すぎる年頃だ。その年頃に、髀肉の嘆など深読みできるはずがない。
なにしろ、髀肉の嘆には程遠いきらめく青春のさ中にいたのだ。

これが、劉備狂乱と断じてもよい感情の昂りをともなっていたと悟ったのはつい最近のことである。
諸葛孔明のことを調べているうちに、孔明がほれ込んだ劉備のことを詳しく知りたくなった。そうおもって資治通鑑三国志の蜀書を読み比べていたとき、うかつなことながら髀肉の嘆の故事に続く文に、はじめて目を通したのだ。
はっと胸を衝かれた思いがした。


劉備諸葛孔明はまだ出会っていない。

劉備曹操みずから指揮する軍勢に撃たれて、荊州劉表のもとに身を寄せた。
無残な負け戦で、主だった武将たちは劉備のもとから離散した。
劉表は前年に長沙、零陵、桂陽郡を平定して、その版図を数千里四方にまで広げており、兵士は十余万人という精力に増大していた。

劉表はこのころ、漢王朝に租税を上納せず、天地を祀って衣服や乗馬、乗り物は天子の制度を用いていた。
そこへ劉備が身を寄せたのである。
劉備が来ると劉表は、礼を尽くしてこの上もないもてなしで迎えた。
劉備に兵士を分け与えて、新野城を守らせておいた。
すると劉備のもとに豪傑や策士が続々とつめかけたのだ。

怖いものを拾ってしまった。劉表は疑心暗鬼にかられる。。
人望や才能では劉備にかなわない。そのうちに自分の地位が危うくなるぞ。。
いずれ曹操がこの荊州を攻めるのは目に見えている。そのとき、曹操と対抗できるのは劉備だ。劉備の人望は呉国をも動かせるだろう。大事な持ち駒である、殺してはならない。
そこで劉表は、劉備を飼殺しにすることにした。
劉表劉備の反乱に備えて、部下を配備しておくことににしたのだ。
飼殺しの日々。
生殺しの日々。

荊州に逃がれてきたのは曹操袁紹を破り、そのまま南下して劉備を破った建安六(201)年である。
それから数年、劉備荊州に滞在した。

とある日の劉表との宴席でのこと。
劉備が厠(かわや)に立つ。
小用ではなさそうだ。←のちのことからの推察である。

もどってきた劉備の様子がおかしい。さきほどまでの快活さは嘘のように消えている。
目が赤い。
髭が濡れてだらしない。
陰鬱な初老の男がそこにいた。
しかも、いまにも泣きだしそうな風情である。
「いかがなされたか?」
怪しんだ劉表がまじまじと劉備をみつめながら問う。
「この身は常に鞍を離れず、戦場を駆け巡ってきたゆえに、太ももには肉がつく暇などなかった。いま、厠で用を足していて、太ももの内側に肉がついていることに気がつきましたぞ。長い間、馬にまたがらないものですから、すっかり肉がつきましたな。日月というものは駿馬のように駆け去っていき、わたしは老いてしまう。漢朝を立て直す功業も果たさずに老いてしまうのかと思うと、悲しくて悲しくてならない」
劉備はそう答えた。
率直な男である。
日月は駆けるがごとし、老いのまさに至らんとすに、功業いまだ建てざるを悲しむのみ
この言葉が光っている。この言葉無くして髀肉の嘆を語るなかれ。
恥ずかしながら、髀肉の嘆をうわべで解釈していたころの私は、
劉備とは根っからの戦好きな男だと思い込んでいたのだ。