丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十

丁夫人の嘆き  二十
  
 「いかがなされまし……」といいかけてわたしは言葉をのんだ。当世の男たちに比べると、孟徳はおのれの感情に率直だ。のちに手痛い裏切りにあってから、感情を封じ込めるようになったが、このころは闊達で、一種の感動すら催すほど率直だった。孟徳は天地を突き破らんばかりに、体から怒気を放射していた。
「何がございましたの?」
すると孟徳は、底光りする目でぎょろりとわたしを睨んだ。何度見ても怖くて親しめない目だ。孟徳のような男の妻は「しとやかで美しい」だけの女には勤まらない。わたしのようにどこか桁外れなところがある女でないと、孟徳のような男を連れ添うなど到底、無理だ。妻ゆえに率直に感情を吐露するのだろうが、それでも時としてたじたじとなることがある。繊細で傷つきやすく、それでも人に酔う。どこまでも人に酔う。そのくせに、とことん酔えば、はっとしてしらふにもどってしまう。孟徳の心はまるで百戯の軽業師のようにしなやかだ。危ういとみえてその実、均衡を保っている。
熱い血のときめきと鋭い判断力が孟徳のなかであらがっている。人にたとえれば巷間で名をはせる遊侠と氷の貴公子、この二人を棲まわせているのだ。
 この人はきっと、この気質ゆえにまっとうな人生を歩むことはあるまい。
 まっとうな人生とは何なの? あれやこれやと思いめぐらせてみるが、料簡が狭いわたしにはよくわからない。たとえば蔡邕のようなお方は、心正しく正しい言葉を実行され、人望も厚い。まっとうな人生を歩かれていたはずだった。讒言にあい流刑という理不尽なめに遭った。罪が赦されて都にもどる途中で行方をくらませたが、まっとうな人生を着実に歩んでいるはずが、まっとうでない人生を歩むはめになられた。軋み続ける天地からはじき出されたばかりに……いいえ、あのお方はやはりまっとうな人生を歩んでおられるのかもしれない……このようにわたしは思いもよらぬ考えの渦にさらわれてしまい、わけがわからなくなってしまう。
 ただ、孟徳がどんな人生を歩こうが、わたしは孟徳についていくつもりでいる。「鳥の巣が覆ると雛は生きていけない」という諺がある。孟徳の雛である子脩を守るために、わたしはひたすらに孟徳についていく。
 「こんなことがあっていいものかっ」
 孟徳が吠えた。吠えたついでに床を踏み鳴らし、袖をぱっとはねのけた。
「おまえ、二日前の董卓の振る舞いの無礼さ、今度は今上は暗愚で天子にふさわしくない、小さいほうが賢いので即位させようとほざく」
「えっ、陳留王を。まだ九歳の……」
 ああ、伝国の璽を失ったことはやはり、天の啓示だったのだ。董卓は朝廷を毒しつづけるだろう。
「朝廷で袁本初にそうもちかけた」
「本初はどう答えましたの?」
「今上は春秋に富んでおられるが、廃するような過ちは犯しておらぬ。長子を廃して庶子を立てるは災いのもとでござる」
「まあ」
董卓の奴、かんかんさ。剣を手にわしに逆らうとどうなるかな、と脅した」
「朝廷は恐怖が支配しておりますのね」
 思わずわたしはため息をつく。孟徳はよほど疲れていたのか、どさっと牀に腰を下ろした。
 
続く