丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十六
丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十六
人生のような長い登り坂だった。
霊帝が黄巾の賊から都を守るために設けた旋門関へとつづく長い長い坂道を私たちはたどった。都にのぼるときはこの坂を胸を躍らせながらくだったものを、都落ちを余儀なくされた今、この身は風に転がる蓬(よもぎ)のように心もとない、どこに安住の地があるというのだろう。行けども行けども大伾(たいひ)の山の中、葬送の笛の音のように風に泣く冬木立がもの悲しさをかきたてた。この山を無事に越えれば中牟県(ちゅうぼうけん)にでる。そうすれば董卓の力の及ばぬ土地に行けるはず。
がらん、がらん。
鐸(おおすず)の音が聞こえた。駅馬につけた鐸(おおすず)が鳴る音だ。函使(かんし)が都からの公文書を地方へと運んでいく。顔をそむけて道をあけると函使が追い越して行った。追捕(ついぶ)の命令が出たに違いない。鐸の音がするたびに身がすくんだ。孟徳は私たちの不安を察していたらしく、酒旗を見つけて馬を降りた。
飯店だが酒旗を立ててあるからには酒も飲ませるらしい。
「一杯やって温もるか。おや、おまえ、震えているのか、いつもの元気はどうしたのだい」
にやりと孟徳が笑った。
「こんなときに一杯ですって」
暢気にも程がある。思わず睨み返してしまった。が、爺やや供の者たちは一様に寒さにこわばった顔をほころばせた。
店に入るなり孟徳は鶏を二羽絞めるように店の主に注文し、つかつかと厨(くりや)にまで入り込んで指図する始末、関所はすぐだというのに緊張感などまるっきりなかった。
それでも店の小女が運んできた羹と湯気が立つ饅頭を食べ、蒸し鶏を肴にお酒が入ると緊張がほぐれ、久方ぶりに晴れ晴れとした気分になった。
孟徳はどういうわけか酒を飲まなかった。
「温まりましてよ」
杯(さかずき)勧めると笑って杯を押し返した。
店を出ると孟徳が小声で言った。
「よいか、どんな事が起きてもわしを信じるのだ、そのときはおまえはただ、うろたえてわしに取りすがって泣くんだぞ。ふふふっ。見ておれ。わしはどうどうと関所を通ってみせるわい。袁紹ですらこの関所をぬけたのだ。袁術、袁紹、この大物が逃げたのだ、やつら、わしらにゃ目もくれんぞ」
「取りすがって泣けとは、どういうことでございますの?」
「まあ、待て、今にわかる。みんな、よく聞け。馬に乗ったらわしから話しかけるまでわしに話かけてはならぬ。従わぬ者は斬る。今から軍法をしいたぞ」
そう言いながら孟徳は全員の顔を威圧するように睨んだ」