丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  二十七

  丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 二十七
 
 またもや駅馬の鐸(おおすず)の音が響く。駅馬をやりすごした孟徳が鼻先でせせら笑った。
「へん。面白くなってきやがったぜ。袁公路(術)め、親父の不名誉を挽回するつもりで逃亡しおったが、見ておれよ、公路と本初(紹)が手を結ぶことはまずあるまい。手を結んだところですぐに破綻だ。公路は日ごろから本初を見下していて、本初は袁家の血を引いておらん、だれの子か知れたものかと吹聴しておるわ。へん。曹孟徳ここにありと天下に知らしめる秋(とき)がきた」
 得意げに孟徳が顎をそらした。
  
 旋門関の城門をくぐるまえに孟徳は懐から竹の水筒をとりだし栓を抜くと、ぐいっぐいっと一気に水をのんだ。空になった竹筒は芒の茂みに投げ込んでしまった。
 城門をくぐりぬけようとしたときだ。
 「おい。そこの男」
 通路の両側から矛の刃先がぬっと伸びてきて、孟徳を遮った。
 兵士が孟徳の顔をすっぽりと覆っていた寒さよけの面衣(めんい)をはぎ取った。それは私が仕立てた綿入れの頭巾で、貧しい者たちは芒(すすき)の穂わたを入れるけど、私は本物の綿をつめた。それを兵士は乱暴に奪い取って、地べたに投げた。
孟徳の顔が露わになる。
 「名は何と言うのか? 生国はどこで、どこへ行くのか?」
 兵士の誰何(すいか)を孟徳は無視した。
 すると上役らしい男がつかつかと歩み寄り、しげしげと孟徳の顔をのぞきこんだ。
「こやつの目、ただ者とは思えぬ目をしとる……うーむ、怪しい。どこかで見かけたような気がする……うん、どこかで」
「げほっ。げほっ。げほっ」
 孟徳が苦しそうに咳きこんだ。
「げほっ。げほっ。げほっ」
 胸を押さえて孟徳は咳きこみながら大量の鮮血を吐き出した。
 「やっ。こやつ、血を吐いたぞ……」
 役人たちがあわてて孟徳から離れた。
「おまえ、都から逃亡した貴人ではないのか? 貴人は通してはならんという命令が下った」
 孟徳は喀血を知られまいとしてさっと袖口で口元を押さえてたが、髭も衣服も血まみれだったから、隠しようがない。
 「ああ、また血を吐いた……」
 ふらふらと孟徳はしゃがみ込む。
 「あなた」と、金切声をあげながら私は孟徳に駆け寄った。
「なぜ隠しておいででしたの? どなたかお医者様を呼んでくださいな。お願いいたします、お医者様を」
 うろたえた私は孟徳に取りすがって泣いた。
「寄るな、離れろ。おまえたちに伝染(うつ)ったらどうする。ここで命果てるのも天命……かもしれぬ……わしの名は宋伯楽……仕官の夢叶わず田舎に」
 孟徳が私と子脩を突き飛ばし、力尽きたかのようにがくっとうなだれた。
 伝染(うつ)ったらの一言が功を奏したらしい。
「行け。行けったら行くんだ。ここには馬の医者はいても人を診る医者はおらん。こんなところで死なれちゃ困るわ。さあ、行け」
 兵士が矛の柄で孟徳をこづくので、私たちは孟徳を支えながら門を通り抜け、南の城門に向かった。
 これが孟徳が編み出した兵法、関所破りの術だ。あの飯店で鶏を絞めさせたのはこのためで、その血を口に含んで欺いたのだから、狡知に長けている。
 関城を出てなおも大伾山(たいひさん)の坂道を昇りつづけて成皋県の県城にむかった。県城のそばに孟徳の知己が住んでいたから、そこで旅の疲れを癒すはずだった。
 
 
続く