丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 三十二

      丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 三十二
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「とうとうやりなすったね」と、博労は風を孕んだ旗を目を細めて見上げた。わたしが刺繍した『曹』の文字が風に揺らいで登り龍のように躍っている。
 博労も容易ならぬ旅をしたのらしい、雒陽で別れたときよりも頬がそげ落ちて眼光に鋭さが増していた。
 「おう、博労よ。息災でなによりだ」
 たくまずして孟徳の相好が崩れる。
 ああ、博労の李だ。幸せだった雒陽の思い出がこみ上げてくる。落魄をかこつ姫君のようにわたしの心が揺れた。そして、成皋(せいこう)の呂伯奢の館での惨劇がまざまざと蘇った。もしも博労や胡三明が居合わせたらあのような事態に至らなかったのではなかろうか。そう思うと、みるみるうちにじわりと熱いものがわたしの目を覆い、博労の顔がぼやけた。わたしは背を向けるとあわてて袖で目頭をぬぐう。心の中に封印していた孟徳の言葉がひょいっと頭をもたげた。『わしが人に恥じることをしても、人はわしに恥じることをしてはならぬ』とつぶやいた孟徳のゆがんだ顔とともに。ああ、なんと傲慢で冷酷な言葉。黄泉で呂伯奢に会ったら孟徳はなんといいわけするのだろう。それとも呂伯奢は為政の乱れをよいことに、山賊の一味になって旅人を襲っていたのだろうか? あの言葉の刃がわたしの胸を刺す。心の痛みとともにわたしの中でわたしが叫ぶ。『この人は裏切る』と。裏切る? 何を裏切るのだろう。わたしの中で紡ぎだされた思いもよらぬ言葉におののいた。
 「捜しやした、殿様のことが気になって八方手を尽くして捜しやした……よう、ごさんした。亭長の野郎がしょっぴきやがったときにゃ肝がつぶれやした。こうなったら牢破りしかねぇ、男ども集めて戻ってきたら旗揚げしなすった」
 からりと博労は笑ったが、その目はじわりとにじんでいる。
「わしのために牢破りを、うれしいねぇ」
 思わず孟徳は博労の手をぎゅっと握る。
「もったいない。あっしは殿様に恩義がありやす。董卓を屠るためならなんだんてやりますぜ」
「復讐か?」
「へい。そんなとこで」
 博労が目を伏せた。目を伏せたまま顔をあげない。博労の背中が寒そうに震えだした。博労は声を殺して泣いていたのだ。
「揚州はどうだった?」
 孟徳が機転をきかして話題を変えた。
「揚州の都は太平ですな。天竺の沙門はここに骨をうずめると喜んでいやしたが、江を渡るのが難儀でしてな、船頭の奴らまるっきり海賊みてぇだ。足元みて渡し賃をぼりやがるもんでたまったもんじゃねぇ。刺史の人物をみて豫州荊州へと避難民が流れていきやす」
「ふーむ。建康は太平か……」
「殿様の故郷を通り、襟に縫い込んだ帛書を大殿様にお渡しいたしやした」
「ありがたい。息災だったか、わしの家族は?」
 孟徳が遠い目をした。
「へぇ、みなさん達者で」
 博労は口ごもるとちらりとわたしを見た。
「ややは大きゅうなったか?」
 すかさず孟徳が問うた。
「聡明なややさんでござんす。回らぬ舌で『父上』というのが不憫でならぬ、早く迎えをよこして下されと卞娘さまからの言伝でござんす。証にと……」
 博労は懐から小さな包みを取り出した。紅の手巾の上で金の簪が、卞娘の身代わりのように輝いていた。
「聡明なややか……あいつめ、なかなか口がうまい。子を置いて逃げたと思ったぞ」
 口とは裏腹に孟徳は目を潤ませていた。
 したたかな女だこと、それとも女は母になるとしぶとく強くなるのか。
 
 年が明けると胡三明が姿を現した。
 董卓袁紹に追手を出したが、袁紹はあまりにも大物すぎて人望がある、まわりの諌めもあり、懐柔策にとして彼を勃海太守に任命したという噂が飛んでいたが、三明はその噂が真実であると告げた。
 
 続く
 
曹操の画像はグーグルMapより加工