妖(もののけ)の涙――小説玉璽物語 十五
「婁(ろう)先生」
敬意を払って私は螻蛄(けら)を先生と呼んだ。
「尻がこそばゆい。好学と呼んでくれ」
螻蛄(けら)は私の肩の上でじーと鳴く。気のせいか、螻蛄の声が耳にやさしく響いた。
「それでは好学どのと呼ばせていただきましよう」
「おお。ところで姐さんは何しにこのような荒ぶる国に来たのかね。姐さんのような都のにおいがする者が」
「都のにおい?」
不覚にも涙がこぼれそうになった。
長安も雒陽(らくよう)もとびきり器量のよい都だった……虹のように天空を彩った高楼……。月に三度、執金吾(しつきんご)の勇壮な行列が巡行する都。その配下の騎兵二百人はそろいの赤い絹の衣をまとい、照り輝く戟(ほこ)を持って続く者は五百二十人。百官の行列のなかでは一番華ある行列だった。漢を再興した光武帝がまだ無名の若者だったころ、ため息をついて「仕官するならばまさに執金吾とならん」と、嘆息したあの行列はもう見られない。都は今、廃墟と化して夏草と野ざらしの髑髏の嘆きの歌にうずもれている。涙がこぼれないように私は空を仰いだ。
「しいていえば好奇心でしょうか、公孫伯珪(瓚)という火の玉のような男をこの目で見たくなった」
「いかん。見ちゃいかん。白馬義従の弓は破魔の矢じゃよ、わしらの正体を即座に見抜きおる」
「やはりそうでしたか」
「燃え盛る火炎のように容赦がない。捨て身で生きてきたのじゃ、いつも」
「……あれは一世一代の大博打でしたか……」
「なんのことかのう?」
「遼西郡の太守だった劉某のことです、劉太守が咎めをうけ、檻車(かんしゃ)で都に護送された事がありましたね」
「ああ、あれか。えろう世間の耳目を集めたのう」
「ええ」
「瓚(さん)はそういう男じゃ、世間から忘れられることは死にも等しいと思いこんでおる」
「若さゆえの任侠(おとこぎ)のなせる業でしたか?」
「そうとも言い切れん」
「好学どのは瓚がお嫌いのようだ」
「ああ。平然と人を殺すから。あの男に並みの人生は似合わない。埋もれて暮らすには才気が有り余っておる、善かれ悪しかれ頭角を現す宿命なのじゃ。それにあの気性じゃ」
「……劉太守の不幸につけこんで大博打を打ったといいたいのですね」
「おう。趙姐さん、あんた、話がわかるぞ。わっはっは。瓚の奴も若かった。熱い血がふつふつたぎっとる。俳優(わざおぎ)そこのけに任侠(おとこだて)を演じた。演じておるうちに酔うたのじゃ。心底、任侠に惚れた。それでのう、あのとき、侠(おとこ)のなかの侠(おとこ)になりきってしもた。そう睨んどるのじゃよ」
「なるほど」
「あれで男を揚げたのじゃなぁ。なんと孝廉(こうれん)じゃ」
「孝廉に推挙されるとはたいしたものです。孝廉は都に召され『郎』の官につき、郎官を数年勤めると能力に応じた官を授かる。そしてつぎつぎと高官を歴任しますわ」
「うまくやったよ、瓚は。孝廉はなぁ、郡国の人口十万以下では三年に一人を推挙できる。人口二十万以下は二年に一人を推挙じゃ、人口二十万では毎年一人と決まっとる。人口百二十万では毎年、六人を推挙できる。ごく限られた数じゃないか。選に漏れ悔し泣きするものは多いぞ。公孫の家の、人の数にも入れてもらえなかった瓚が孝廉じゃ」
「なんと皮肉なこと。ほっほっほ。今じゃ一門が蔦が大木に絡みつくように瓚を頼りに生きている」
私は笑った。螻蛄(けら)の好学は調子に乗って私の肩先でぴょんぴょん飛び跳ねている。
やはりそうか。好学の言葉に私のなかでわだかまっていたものが氷解した。だれしも若いころは夢を見る。夢がもたらす果実にありつくものはほんの一握りであるが、若者が夢を見る世のなかはいい。公孫瓚はみずからおのれの運命を切り開いた。瓚(さん)の兵法はみごとな戦果をもたらしたわけである。
思えばそれは遼西郡の太守だった劉某の不運からはじまった。朝廷のとがめを受けた劉太守は檻車(かんしゃ)で都へ護送された。檻車は、囚人を護送するために檻に車輪をつけた車である。枷(かせ)をはめられ檻に入れられることは、耐えがたい屈辱と苦痛である。このうえない屈辱は人をも殺す。食事の世話から下の世話、宿駅の小役人への心づけ、枷が肌を破らぬかと心をこめて世話をせねばならぬ。「ああ、なんとしてもお守りせねばならぬ」と、瓚(さん)は意を固めたに違いない。
漢の法律は、部下が車に付き従うことを許さなかった。そこで瓚は白民に身をやつし、下男と偽って劉某の世話をしながら車を牽(ひ)いて都まで付き添った。やがて劉某に廷尉の裁きがくだり、日南郡(治所は西巻。現、ベトナム領)へ流されることとなった。ここまで来たのだ、日南まで同行しよう。
亡き母に別れを告げるために瓚は、都の北の北芒山にある母の墓を訪れる。豚酒を供えて祈った。
「昔は人の子でありましたが今は人の臣でありますれば、主の供をして日南に参ります。日南ははてしもない遠方にあり、暑くてじめじめしていて、体を壊す者が多いと聞いております……かの地から無事に戻れるかどうか……恐らく、かの異郷で瘴癘(しょうれい)の毒に当たって命果てることでしよう。これが今生の別れとなりましょう……さらば、これにてさらばでございます……」
泣き泣き瓚は祈った。なにしろ声が大きいので、しめやかな別れというわけにはいかなかった。悲歌にも似た祈りの声が朗々とあたりに響くと、聞く者は心を打たれて声の主を捜した。見れば、詩情をさそうような美しい男が墓の前で泣いているではないか。
「おお、日南へ行きなさるのか。気の毒にのう……」
「あそこは暑くてじめじめとしたところだ、体に気をつけなされよ」
「瘴気(しょうき)にあたって熱にうなされぬように」
気休めに慰めの言葉を口にするが、内心では二度と故国の土を踏むことはあるまいと哀れに思うのである。
瓚は劉某の世話をしながら日南へと向かった。運が強い男である。その道中で赦免の書が届き、劉某と瓚は無事に戻ることができた。国にもどった瓚は、臣としての忠孝をたたえられ、孝廉に挙げられたのである。そして郎の官を終えて遼東属国の長史に任命された。その後、遼西の鮮卑の反乱を鎮めて功をたて、降虜校尉をさずかり、都亭侯に封ぜられたが、烏桓や鮮卑を大いに震え上がらせる実績を買われて属国長史も兼任していた。
初平二(191)年、青、徐の黄巾三十万が勃海の境界に入り、黒山の賊と合流しようとしたが、公孫瓚は歩兵、騎兵あわせ二万を率いてこれを撃ち、大勝した。この功によって奮武将軍を授かり、薊侯(けいこう)に封ぜられ、東に公孫瓚ありと、その名をとどろかせたものである。