丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  十七

丁夫人の嘆き  十七
 
 前夜、雒陽宮に上がった火の手を遠望した董卓は、すぐさま都に向かって行軍した。強行軍だったとみえ、翌日の辛未(二十八日)の鶏鳴に雒陽の西の城門に着いた。城門校尉から政変の経緯を聞くとすぐさま北芒(ほくぼう)に進んだ。
 鶏鳴は丑の刻(午前二時ごろ)をいうが、鶏鳴といえば、孟徳に笑われた恥ずかしい思い出がある。
「鶏鳴は一番鶏が鳴く刻限でございますから、宮中でもやはり、すぐれた鶏を飼っているのですね。中官がお世話するのかしら」
「あれは鶏か? とさかが生えたら見世物だ。うっ、くっくっくっく。わっはっはっは」
 孟徳が身をのけぞらせて笑った。
 なにかおかしなことを言ったかしら? 顔を赤らめながら、わたしはじっと孟徳を見つめ返す。孟徳は笑いの河のなかで溺れかけていた。費亭侯のお世継ぎはうつけ者かしら?
 「笑ってばかりいないで、何かおっしゃって下さいな」
「宮中では鶏など飼わない」
「はぁ。それでは漏刻で鶏鳴をしって太鼓を鳴らすのですか?」
「それに近いが、うーむ、やはり違う。夜の漏刻が尽きる前に衞士たちが朱雀門の外で歌うのだ」
 朱雀門は宮殿の門の名前だ、そこでいかめしい衞士たちが鶏の鳴きまねをするのかしら。なんだか可笑しい。
「歌うのですか? みなで一斉に、こけこっこうっ」
 わたしは袖で口を覆ってしとやかに笑った。
「わっはっはっは。面白い女だ、おまえは」
 孟徳は笑いながらわたしを抱き上げて部屋の中をぐるぐるまわりだした。
 あのとき孟徳から教わった。夜の水時計が尽きそうになると、朱雀門の外で一番鶏のかわりに衞士たちが鶏鳴歌を歌うのだ。この鶏鳴歌は楚歌のことで、垓下(がいか)で漢の高祖(劉邦)が項羽を囲んだ時、囲みの四方から楚歌が沸き起こり、羽はおのれの命運尽きたことを悟ったという、あの楚歌のことだ。
 楚歌を歌う衞士たちは豫州汝南郡の固始、鮦陽(とうよう)、細陽(いずれも安徽省中西部)と荊州武陵郡の孱陵(せんりょう)の四県から選び、楚歌を習わせたという。
孱陵はのちに、荊州にいた劉備がここを都と定めて公安と改名した。
 
 その日の早朝、孟徳は天子を奉迎するために北芒に向かった。戻ってきたのは星が瞬きはじめた頃で、どこで落ち合ったのか博労と胡三明が一緒だ。まさか、馬市近くの芙蓉楼で落ち合ったのではあるまいか? あの妓楼は三明の妻が営んでいて、孟徳もちょくちょく顔を出すらしい。でも、寄り道するにはずいぶんと遠回りだ。上東門を出て楽里道を南に行くと馬市石橋にでるが、あの界隈は酒旗がはためき妓楼が軒を連ねる。場所がら東国からの旅人が多いようで、東国の事情に明るいこともうなずける。無理やりに案内させた古株の下男が「妓楼としては並みですな」と、したり顔で教えてくれた。天下の都である、客筋がよい妓楼になれば富豪の邸宅のようだという。それでも芙蓉楼には三層の楼閣があった。流れてくる琴の音もなかなかの手練れと舌をまいたものだ。楼を眺めていると、三明という男が分からなくなる。妻と一緒に生業に精を出せばよいものを、弟を太学に入れたいだの、夜行の禁をおかして密偵を働いたり、あの男の真意はどこにあるのだろう。あの男、案外と野心家なのかも知れない。
 いつもの部屋に籠るなり矢継ぎ早に博労と三明が孟徳に問いを投げかけた。いつもと立場が逆だ。ああ、妓楼には寄っていないと確信すると同時に、董卓の出現に平静でいられない民の気持ちがひしひしと伝わる。
「殿様、董卓の兵の員数は幾らでございますか?」
「聞くところによると三千、歩兵騎兵合わせてだ」
「やはり三千ですかい。馬糞の数でおよその見当はつきますがね、平楽観まで行ってみましたがね、門の中に入れない。兵士目当ての餅売りの話じゃ、歩兵はどれもこれも疲れ切っていて商売にならねえそうだ。董卓も若くはねぇ、疲れているはずだ。そのくせに北芒まで走りやがった。あの厚かましい男が手ぶらで都から引き上げると思いますかね。こいつは臭い、臭いますぜ」
 董卓は西門の外にある平楽観に駐屯するのか。それなら都をのし歩いて乱暴を働く心配はまずなかろう。わたしは少しだけほっとする。
「ちっ。董卓は人の気を呑む術を心得ておる。なんだ、あのやり方は。ぴしゃっと人を叩いて相手の機先を制し、鼻白んだすきに息も継がせずに攻撃だ。はったりだ、奴ははったりを効かせおる」
 激した孟徳の声が響いた。
「はったり? どのようなはったりでございますか?」
 三明の声だ、きっと身を乗り出しているに違いない。ああ、もどかしい。なんとかのぞき見できないだろうか。そろそろと首を伸ばして窓を細目にあけるが、魚油のともしびが揺らいだので、慌てて窓を閉めた。孟徳が咳払いをした。まるで、おまえのしていることは手に取るようにわかると言われたように思え、私は赤面した。
 
 
続く
数時間後に更新します。
洛陽の絵図があったのでそのとき付けます。