丁夫人の嘆き(曹操の後庭)  七十八

         丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十八
 
 劉焉(りゅうえん。字は君郎)が益州(四川省)に赴任したのは、私たちがまだ雒陽に住んでいた頃だ。益州牧の一行は一族はおろか知人、友人や見ず知らずの旅人までが加わったから、彼らの行くところは都会のように賑わった。
 周王朝のときに古蜀と記された蜀の国は、漢朝では益州に組み込まれ刺史の監督下に置かれていた。
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    四川省広元市剣門県普安鎮 剣門関(漢中から蜀に入る要衡の地)
 
 
 時に益州刺史の為政は苛酷で悪い噂は都にまで届いていた。朝廷が官位を銭で売った弊害が如実に現れたのである。苛酷な為政に民は生業を失い、どうせ死ぬならと叛徒に化した。地方を乱したのは黄巾だけではない、飢虎のような暴政である。
 地方は乱れに乱れた。そのとき霊帝はふと、ある男を思い出したのである。
 「ああ、太常の劉焉が建議したのう、使ってみるか」と、焉を召したのだ。
 『昔の牧伯のように人物を選び、刺史の権限を強くして為政の立て直しを図られよ』と、焉は建議したが当時は見向きもされなかった。
 風向きが変わったのは、涼州并州で刺史が反乱の徒に殺されてからである。この事件でようやく彼の策が日の目をみることになった。
 太常は天子の宗廟の祭礼を司る官の長官である。位は九卿、禄高は中二千石(せき)、高官である。霊帝は太常の禄高をそのままにして焉を監軍使者、領益州牧に任じた。この時以来、新たに任命される刺史はみな『牧』と名を改めたが、それは焉の建議によるものだ。
 このとき選ばれた牧に、宗正の劉虞がいた。あの四龍のひとりである。宗正は宗室の取り締まりと戸籍を司る官の長官である。宗室のなかの人徳ある温厚な者を選んで充てた。その劉虞が幽州牧を拜命した。他には、太僕という宮中の車馬を司る官の長官である黄琬(こうえん)が、豫州牧を拜命した。この者たちはもとの禄高のまま州牧を拜命したために、いやでも牧の地位が高まった。刺史の禄高は六百石だが、この三人は等しく中二千石である。破格の待遇だったのは、朝廷が国家再建の望みを州牧に賭けたからだ。
 
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  四川省広元市  蜀の桟道
    
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 四川省広元市   名月峡の蜀の桟道
 剣門の側を流れ、桟道の側を流れるのは嘉陵江で、古水名は西漢水。南へと辿ると江水(長江)である。つまり長江の支流である。
 
つづく(スペースがカツイのでここでいったん、切ります)
 
 写真はグーグルマップから拝借いたしました。