2012-01-01から1年間の記事一覧

Yahoo!ブログの激しく?な人々

Yahoo!ブログの激しく?な人たち ブログをはじめてはや、四年目に突入した。 はじめの頃の訪問者に自動巡回で有名な「カオス」がいた。履歴をたどって行くと、訪問者の数がはんぱじゃない。こんなに人気のあるブロガーさんがいるのだ。初心者の私は、目を丸…

子ツバメ、生きろ!

子ツバメ、生きろ! 今年の五月は暑かったり寒かったりで、だらーっとふやけた体が時ならぬ寒さにきゆっと縮んでしまいそうだった。五月の下旬のその日も寒かった。帰宅した私は玄関ポーチ、あまりにもちゃちで、ポーチと呼ぶには気恥ずかしいが、そのタイル…

続びっくり! インパクトありすぎだわ

続 びつくり! インパクトありすぎだわ 例の堺市中区深井水池町の西尾家です。 このあたりは西尾さん、東尾さんという姓が多いです。 鉄人28号があるお家の前を、はじめて通ったのは四年前のこと。鉄人に度肝を抜かれ、ええっ、なんだなんだと思った私の目は…

びっくり! インパクトありすぎだわ

びっくり! インパクトありすぎだわ もしあなたが道を歩いていて、何気ない民家に目を留めたとしよう。そこに巨大な鉄人28号がぬっと立っていたら、ええっ!となるでしょう。 おおっ、鉄人がいる!オヨヨヨッ。 こんな感じで鉄人28号が立っていたのだ。 …

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)七十四

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十四 「前朝の景帝じゃ、景帝の第八子に中山靖王(劉勝 BC113没)と諡(おくりな)された王がおられるが、この王の末裔という。といっても正嫡ではなく、靖王の庶子である劉禎(りゅうてい)の末裔じゃ。本家筋ではなく分家筋じゃがの…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十三

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十三 雒陽(らくよう)にいた頃の孟徳は身分も高く、才にふさわしい役職を拜命したものだった。それを私は至極当たり前のことのように思っていた。四海横流する今、世情は曹家のような宦官あがりの一門をことさらに卑しみ、才無き…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十五   虎牢関(成皋関)

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十五 虎牢関(成皋関) 虎牢関(ころうかん)またの名は成皋関(せいこうかん) 河南省鄭州市汜水鎮(しすいちん)の虎牢関 呂布の点将台全景 わたしが『丁夫人の嘆き 雑記 七』 http://blogs.yahoo.co.jp/flow_six_tamaehayashi/…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十四

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十四 武関 あの有名な武関である。 三国志に関していえば、袁術が雒陽(らくよう)から脱出し、武関を通って南陽に入った。 陝西省商洛市武関鎮付近 武関城があった土地 陝西省商洛市武関鎮を流れる武関河。橋の名は毛坪橋。 …

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十二

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十二 翌朝、城門が開くと、史渙(かん)たちは待ち構えていた商人や巫覡(ふげき)たちと一緒に河内に向かった。わたしに路用の心配をさせまいと、市で河内に行く旅人を募って護衛を引き受け、路用を工面していたのだ。孟徳は人に恵…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十一

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十一 孟徳のためとあらば労を厭わぬ史渙たちを、だきることなら山海の珍味でもてなしたかったが、流浪の身であるわたしには所詮叶わぬことだった。この頃、酸棗も飢色に染まりつつあって、義旗のために集った十万の衆は、食えぬ…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 七十 日が高く昇っていたので、市もそろそろ店じまいである。そちこちの店で棚や筵を片付けていた。人だかりの向こうから渙の声が流れてきた。 「義を唱えて尊い旗のもとに集った諸君よ。諸君に曹公は告げた。戦わずしてなんの大義…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十九

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十九 「気の毒なこった……」 気がなさそうに博労がつぶやく。 気の毒なことだと言ったりには、博労の心はここにあらずの体である。これでは王美人の野心の犠牲になった少年が気の毒なのか、正統な天子でない少年のために旗揚げし…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十三

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十三 さて、今回は史料についてのわたしのスタンスです。これを語るについて、恥多き私の過去を曝すことになるという恐れがあり、断じて語りたくはなかった。 が、最近、中国で曹操の墓が発見されというニュースが駆け巡り、…

都市伝説のできあがり

都市伝説のできあがり へーい、おまっとうさん。一丁上がりぃ~っ。なんて調子で、今日もどこかで怪しくも妖しい都市伝説が生まれている。 合併合併でふくれあがったわが町の●区は、人口二十万を超えているが、地元の人よりも周辺から流れ込んできた人口が多…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十八

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十八 劉備の勢力はまだ微々たるものであるが、彼の名を口にするときふと、人々は漢朝を再興した光武帝のことを思い出させた。この男の出現によって、劉氏はまたもや光芒をとりもどし燦然と輝きわたるのではなかろうか? 世人が劉…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十七

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十七 博労は、密書をたずさえた史渙(しかん)という男の護衛をかねて酸棗にきたのである。無駄を嫌う孟徳のことである、護衛をかねて義旗の風向きや敵情を探らせているのだろう。 義旗の本陣を遠ざかるのは孟徳にとって苦痛だった…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十六

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)六十六 針仕事をしていると、見知らぬ女がわたしの中で「孟徳のような男の妻になるものではないわ」と、話しかけてくる。えっ。誰? おまえは誰? 「わたしが誰だか知っているくせに、わざと知らないふりをする」 女は気分を害した…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十二

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十二 雑記二十一から引き続き、秦の始皇帝の制度を歴代王朝は踏襲した一例をあげてみよう。 詔について 詔は告知の意味である。秦以前は上下ともにこの字をあてた。 その用例として「左伝」に、晉の欒書(らんしょ)が鞌(あん…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十一

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)雑記 二十一 秦の始皇帝は儒学者を坑(あな)にし、書を焚いたために希代の暴君として名高い。 ※坑(あな)にすとは、穴の中に生き埋めにすること。 始皇帝は書物のすべてを焚かせたのではなく、実用書は残したといわれる。 暴君として…

金運カレンダー

金運カレンダー 家人が年明けそうそうに新潟に出張にいった。おみやげは金運カレンダー。お泊まりした旅館の方がくれたそうだ。 新潟県民のみなさまにはおなじみかもしれませんが、 こんなのはじめてみました。 ちかごろではめずらしくなった日めくりなんで…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 雑記 二十 一、曹操はいつも少ない兵で大軍に勝利したわけではない 三国志『魏書』武帝紀を読む限り、曹操は兵法に長けていて、奇策や擬兵を駆使して敵の数分の一兵力で敵の大軍を制圧してきたような記載が多い。 千年以上も前にこ…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十五

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十五 「そなた……そなたは博労ではないか」 わたしは足早にその男に近づくとじっと顔を覗き込んだ。博労は幾度も頷きながら、うまそうに湯ざましを飲んだ。 「安心なさるがよろしい。無事ですぞ。曹氏も夏侯氏の男たちは無事に…

丁夫人の嘆き(曹操の後庭) 六十四

丁夫人の嘆き(曹操の後庭)六十四 「なんと、橋がのうなっていたのか。あの橋が……」 思わずわたしはため息をつく。 橋が消えたことなど珍しくもなかろう。博労の李の責任でもあるまいに、この律儀者は申し訳なさそうに身を縮めた。 河水(かすい。黄河)は…